現代の日本にとって戦争は遠い。北朝鮮問題や領土問題など不安材料は多いが、現時点で市民生活は概ね平穏に保たれている。テロも滅多に起きない。しかし残念ながら、世界には戦争やテロが常態化した地域が数多く存在している。その一つ、パレスチナを舞台にしたミステリをご紹介しよう。
パレスチナで歴史教師として働く56歳のオマー・ユセフは、教え子のジョージ・サバがテロリスト射殺幇助の容疑で逮捕されたと知らされる。当局は、ジョージがイスラエルの内通者だったと考えているようだった。しかしジョージは優秀で判断力に富む若者で、オマーには、彼がイスラエルのスパイだったとは信じられなかった。オマーはジョージの無実を信じて、冤罪を晴らすべく奔走を始めるが、ジョージが公開処刑される期限は刻々と迫っていた。
パレスチナを舞台に、パレスチナ人の視点からパレスチナ問題を描くミステリというのは、史上極めて稀な試みである。『ベツレヘムの密告者』は、それに果敢に挑戦した作品だ。作者のマット・ベイノン・リースはイギリス人ジャーナリストで、1996年からエルサレムに住んでおり、本書で作家デビューした。本書は2008年の英国推理作家協会新人賞を受賞している。
読解の上で鍵となるのは、本書がソフトな読み口の健全な娯楽小説を「目指していない」ということである。娯楽小説として貫徹したければ、主人公をもっとわかりやすい単細胞の熱血漢に設定すれば良かったはずだ。しかし本書の主人公オマーは違う。彼は教育者・研究者としては有能であるが、冒険できるほどの胆力や体力は基本的にないし、正義を求めて戦う闘士というわけでもない。それどころか、忠実な妻がいるにもかかわらず、魅力ある女性に接してあらぬことを考えてしまうだらしない面を持つ。自分がジョージの冤罪を晴らすことなんてできないと、弱気になってしまうこともある。はっきり言えば、オマーはどこにでもいるおっさんに過ぎないのだが、パレスチナ人にしては世界情勢の捉え方が冷静かつ公平で、イスラエルに対してもフェアな態度をとる。
こういう人物が、教え子の無実を晴らそうと奮闘するだけで、政治的なパワー・ゲームの渦中に放り込まれてしまう――この事実そのものが、パレスチナの悲愴な状況の一つの表れである。もちろん主人公の造形だけではなく、ストーリーも痛快娯楽活劇とは全く違う方向に進む。エルサレムの人々の間では、ジョージが殺したことになっているテロリストは英雄(泰平楽な日本人から見れば、あまりにも末期的な英雄像である)で、その英雄を殺したジョージは、憎きイスラエルに魂を売った裏切り者なのである。だからオマーの懸命の呼びかけには誰も応えず、それまでオマーと親しかった人々ですら協力を拒むのだ。その後の展開もあまりにシビアで、あまりにリアル。読んでいるこちらも、襟を正さざるを得ない。
パレスチナ云々の部分を除くと、ミステリ部分の出来がストレート過ぎて物足りないのは否めないが、「考えさせられる」タイプの小説としては良作なので、評価は☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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