大型台風が関東地方に上陸し、ひっきりなしに事故や被害の状況がニュースで流されている。『遠い響き』は、そんな週末の一夜の話である。多摩川が荒れ狂っている気配に野次馬根性を刺激された「私」は、「火事場見物なんて最低の趣味よ」と咎める妻に、煙草を買いに行くだけだと抗弁しながら川べりにやって来る。多摩川に架かる橋の上で、「私」は二十代後半とおぼしき、痩せた男に出会った。全身ずぶ濡れで憔悴しきっているが、「私」は切羽詰まったその目に魅せられてしまう。家に連れて帰ったその男を、人助けと思ったのか妻は何も言わず迎え入れた。男は夫婦に、橋の上でパトカーを探していたわけを尋ねられ、口を開く。
<「人が流されたかもしれないからです」>。
警察へ連絡した方がいいのではないかと慌てる夫婦を尻目に、男が語り始めた話はとても奇妙に響いた。なぜなら、人が流されたという事件は追ってと前置きしたものの、男は、アニメやコミックが好きという自らの平凡な生い立ちを訥々と述懐し出したからである。
男は、アニメの専門学校を卒業し、秋葉原のコミック販売店に就職した。そこは幼女強姦ものなど<極悪エロ同人誌>を扱って急成長した会社だった。男は初めこそ嫌悪したものの、次第にその低俗性はおろか、会社内のいびつな人間関係やワーキングプア同然の働き方など劣悪な職場環境にも馴らされていく。取り巻く現実に違和を感じながら、多摩川の濁流のように現代人を押し流そうとしている不文律「空気を読む」ことに躍起になり、やがてその世界に麻痺してしまうまでのプロセスを丁寧に追っている。
圧倒されるのは、男のひとり語りの中に、現代の病理とも言うべきありとあらゆるグロテスクさが詰め込まれていることだ。パワハラやワーキングプアといった労働争議、爛熟していくおたく文化、動機なき暴力衝動、変わらぬ人種差別、台頭するモンスターペアレンツ……。
<ぼくが昨日からついさっきまでのあいだ、見てきたありとあらゆる狂気を見過ごし、暴力から目をそむけ、黙ってなにもかもをやり過ごしてしまったこと、ただ自分のささやかな欲求を満たすためだけに、ほかのことを自分とは無関係と切り捨ててしまったことへの、これは罰なんです。>
本書は、現代人が直面し、途方に暮れている社会問題のすべてを拾い上げて書かれた物語だ。当世の闇と、それによってじわじわと腐蝕されていく精神。その混沌を写実し、「現代の地獄めぐり」と評した本書は、語り手が狂気に絡め取られていくさまといい、聞き手が対照的に醒めた目線を向けている構造といい、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』(岩波文庫・三交社より新訳も)にも一脈通じるものがある。
男が最初に語った人が流された事件や、男が岡山で遭遇した“誰でもよかった”的な犯罪の顛末も気になるが、何より、男が静かに語り続ける世界の様相が恐ろしい。
カバーの中央に描かれているのは、橋梁の下にそびえ立つ、堆く積まれたがらくたの塔。バベルの塔を思わせる無気味さが、本書の読み味をよく表している。
実は4月17日発売の本なので、新刊といって紹介するのはちょっとだけ気が引けた。けれど、これほど挑戦的な小説だというのに、レビューがほぼ世に出ていないのだ。ならばと、強く一読をオススメしたい一心で、やや時期遅れを承知でご紹介させていただいた。
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とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |