アラスカの安ホテルの一室で、ヤク中の男が射殺される。男の名は伝説のチェスプレイヤーと同じエマヌエル・ラスカーで、現場には差し掛けのチェス盤が置かれていた。そのホテルには殺人課の刑事マイヤー・ランツマンが長期滞在しており、事件に興味を抱いたランツマンは、従弟で相棒のベルコ・シェメッツと共に事件を追うことになる。
と書くと正統的なハードボイルド小説のようだが、この作品が一筋縄ではいかないのは、物語の舞台が、イスラエルの建国が失敗し、再びユダヤ人が流浪の民となった架空の世界であることだ。ランツマンたちが暮らすアラスカのシトカは、アメリカのユダヤ人受け入れ反対派の有力議員が事故死したことで生まれた暫定特別区なのだが、間もなくアメリカに返還されることが決まっているのだ。
それだけに、ランツマンがアルコール浸りであるとか、シトカにロシアマフィアが根を張っているとか、ランツマンの離婚した妻が上司として赴任してくるとか、シトカ返還前に事件を解決する必要に迫られるタイムリミットサスペンスとか、いかにもハードボイルドらしい展開と平行して、第二次大戦後にユダヤ人の経験した苦難やシトカでの生活、特別区返還を目前にしてユダヤ社会に広がる不安など、もう一つの歴史も圧倒的なリアリティで活写されていく。現実社会と似て非なる架空世界のディティールを読んでいるだけでも楽しいが、後半になると、それらが事件解決の重要の鍵になっていることも分かり、意外な真相を浮かび上がらせるので侮れない。
アラスカで、新たに入植してきたユダヤ人と先住民イヌイットの間で紛争が起きているのは、イスラエルとパレスチナの対立関係を彷彿とさせるし、ユダヤ系の過激派とアメリカのキリスト教保守が結託してパレスチナを武力奪取を計画しているところは、イスラエルを支援し続けるアメリカの姿そのものである。架空世界と現実世界を二重写しにすることで、ユダヤ-パレスチナ問題をどのように考えるべきか、という一種の思考実験を行っているところも鮮やかだった。
ただ日本人には馴染みの薄いユダヤ人の歴史や文化、ユダヤ教の宗派の違いなどがあまり詳しく説明されないまま物語が進むのに加え(英語圏では誰もが知っていることなのか?)、やはり日本人に馴染みの薄いチェスの見立てが随所に出てくるので、基礎知識がないとハードボイルドや歴史改変SFとして楽しむ前に、挫折してしまう可能性も高い。その意味では、同じようにユダヤ問題(というよりもナチもの)が出てくる歴史改変ミステリのレン・デイトン『SS-GB』や、ロバート・ハリス『ファーザーランド』などよりも確実に敷居は高い。ただ難解な部分を差し引いても十分に☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |