朝倉かすみが巧い作家であることは十分承知している。もう大概のことでは驚かないし、点だって甘くしないぞ、と思っているのだが、こんな文章を読まされるとやはり甘い顔をしたくなってしまうのだ。
――駆け抜けた、というのがさち子の実感だった。それがなければ夜も日も明けないという時期が確かにあった。どうかしていたと思うのは、寝起きにだって自分を慰め、高みに上りつめるまで手綱をしぼったことである。
「手綱をしぼった」ってあなた! その発想は無かった。短篇集『玩具の言い分』に収録された「孑孒踊」の一節である(ぼうふらおどり、と読む)。そうか。男性と違って、女性の手淫は小説の題材になるんですね。いや、男性の手淫を題材にしてもいいが読みたくない。
『玩具のいい分』は、恋愛小説専門誌「Feel Love」に掲載された短篇を集めた作品集である。まだ恋愛だってできるのに周囲はそう見てくれなくなりつつある年齢にさしかかった女性の、セックス観が描かれているところがたいへん興味深い。それをまた朝倉かすみの文章で書いてあるものだから、一気に読まされてしまった。たとえば「小包どろぼう」の宇津井茂美は、四十三歳にしていまだ男性経験がないのだが、セックスについて無関心であるはずはなく、あれこれと考えることもある。「性交の手順についてはさほど不安ではない。相手にまかせていればよい」と思いつつも、「矢継ぎ早に、引っくり返されたり、仰向けにされたり、なにかこう卍固めのようなかたちにされたら、十中八九ついてけない」と心配するのである。この人は「主婦の友」の古い号を読んで暇つぶしをしているぐらいなので、「微笑」とか、そういう婦人雑誌の付録で間違った知識を仕入れたのかもしれませんね。卍固めって、どんな体位なんだ。
こんな感じでふらふら読まされてしまうわけである。ずるいなあ。でも文章が達者なだけが価値ではない。停滞した日常を描くと見せかけて、その中に閃くような非日常の思想を挿入してくるのが朝倉かすみという作家だからである。恋愛小説を突き抜けて暗黒小説の地平にまで到達してしまった傑作『ほかに誰がいる』(幻冬舎)の作者ですからね。本書でいえば「誦文日和」という短篇に不意を衝かれた。最後の三行(正確には四行)を読んだときには鳥肌が立ったものである。日常が暗転して、ものぐるしい思いを掻き立てる淀みが明るみに曝け出される瞬間を描く、素晴らしい短篇だ。この一篇を読むだけでも十分価値がある。評価は☆☆☆☆☆だ。「誦文日和」一作だけなら☆六つでもいい。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |