伊坂幸太郎は、もっとも成功した村上春樹チルドレンのひとりだ。面白いことに、本家のこの本を読み始めてすぐ、伊坂幸太郎が二重写しになった。ルーティーンのバグのような不可思議な出来事に放り込まれる主人公、テンポのいい会話、意味深な固有名詞、そして読み進むほどに、登場人物たちがあちこちでつながる奇跡。かなりサービスたっぷりにセクシャルな体験があれこれ登場するのだが、まったく官能的に響かない点も、伊坂幸太郎とかぶった。村上春樹が本書に7年の歳月をかけていた間を埋めるように、伊坂が活躍していたのだから不思議はない?
それはさておいても、スノッブさを削ぎ落とした読みやすいハルキに驚く。気取りを捨てて大衆ウケしそうなハルキにかえって困惑してしまったものの、本書もいつも通り、成り行きを知りたい欲求にがっちり絡め取られて前のめりに読み進んだ。
奇数章は、ある特技と秘密を持つマーシャル・アーツのインストラクター、青豆という女性が主役となり、自分のある信念のために過ごしている日々を追う。偶数章の主役は、作家修業中の予備校教師、天吾。天吾は、17歳の少女ふかえりが書いた、『空気さなぎ』をリライトし、ベストセラーを仕掛けることに加担する。
青豆にも天吾にも、10歳のときから忘れられない存在がいる。ふつうとは違う人生を選ぶことになった青豆の過去から現在まで、天吾が『空気さなぎ』と関わったことによって巻き込まれていく顛末が描かれていくうちに、運命に導かれるように両者は近づいていく。物語が始まってほどなく、青豆は、自分が1984年ではなく、1Q84と名付けた時空に足を踏み入れてしまったことに気づいた。しかし1Q84年は1984年のパラレルワールドというわけではない。自分たちが選ばなかったもう一つの世界なのだ。それでも人はあっけなく死に、武装した過激派や台頭するカルト教団の事件が起き、スキャンダラスでモラルなき事件の数々は、現実と限りなく相似形だ。
本書はBOOK1とBOOK2がそれぞれ24章ずつで構成されており、合わせると48章ある。ふかえりが天吾に好きな音楽を聞かれて答えた、「『平均率クラヴィーア曲集。第一巻と第二巻』もまさに長短24ずつの前奏曲とフーガである。この本で村上春樹は善も悪もすべてがバランスよく存在してこそ<完全なサイクル>が構築できると描いて見せた。<均衡そのものが善なのだ>。
冒頭からこの小説が、いわゆる世界というものの秘密を解き明かそうとしているのは伝わってくる。高速道路の渋谷に向かう渋滞の中、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』をかけていた謎めいたタクシー運転手は、ヒロインの青豆にこう忠告するが、それは読者に突き付けられている言葉でもある。
<見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。>
『1Q84』は、ジョージ・オーウェルの『1984』を踏まえている。オーウェルが書いたときは近未来として見つめた時代が、本書では過去を見直すかたちになる。しかし、いちばん大きな違いは、『1984』が全体主義に支配されたディストピア小説だったのに対し、『1Q84』は、自分なりのシステムを編み出し、自らが何かを選び取ることが生きることだという希望の書に仕上がっていることだ。青豆も、天吾も、老婦人も、ふかえりも、多くの登場人物はみな何らかのトラウマを抱えているが、結局のところ、自分自身にしかそれは解決できない。それをはっきり示すことで、癒しを与えてもいる。
取りこぼした謎が残ることに、不満を持つ人もいるだろう。だが、親切な今回のハルキは、評論家の『空気さなぎ』の書評という形式を借りて、小説内でこうアドバイスもしてくれている。
<ただし空気さなぎとリトル・ピープルの意味するところについては、少なからざる書評家が戸惑っていた。あるいは態度を決めかねていた。「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していくのだが、空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。あるいはそれこそが著者の意図したことなのかもしれないが、そのような姿勢を〈作家の怠慢〉と受け取る読者少なくないはずだ。(略)>
<それを読んで天吾は首をひねった「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していく」ことに作家がもし成功しているとしたら、その作家を怠慢と呼ぶことはできないのではないか。>
個人的には、まったくもって賛成だ。実際、本書にはまだ続きがあると予測している読者もいるようだが、私はこれで完結してほしいと思っている。さまざまな命題は提示された。それをどう解くか。骨太で揺るぎない回答は、ひとりひとりが考え出すものだからだ。
やはり本家の貫禄というか、伊坂よりもずっと大きなものを見ている目が本書にはあった。
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とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |