80歳になる英国女王エリザベス二世が読書に目覚める! こんなにシンプルにストーリー紹介ができてしまう小説だが、侮るなかれ。女王の視点を通して、文学の深い森に恐る恐る分け入っていくときの臆す気持ちや襟を正したくなる気持ち。少し道が見えてきたときの高揚感やさらに奥へ進もうとするときの緊張感。本書には、読書という体験がもたらす感情があますところなく綴られている。
<本は想像力の起爆装置ですもの>
<すべての読者は、彼女も含めて平等である。文学とはひとつの共和国なのだ>
<読書にも一種の筋力が必要>
読書好きなら、首肯したくなる文章がてんこ盛りなのだ。
主人公の女王陛下は、それまでの人生で本は読まないわけではなかったが、何か特定のものを好むこと、熱中することはえこひいきにつながるため、努めて<好みというものをもたなかった>。宮殿の裏庭に止まっていた移動図書館のトラックに、ひょんなことから足を踏み入れた女王は、高貴な血にふさわしい下々の者への思いやりで、一冊借りて帰ることにする。選んだのは、アイヴィ・コンプトン=バーネット。イギリス女流作家としては、アガサ・クリスティーやエリザベス・ボウエンとほぼ同世代で、イギリス・エドワード時代の大家族の中で繰り広げられる愛や葛藤ばかりをテーマにしているらしい。
移動図書館に居合わせたのが、厨房で働いているというノーマンという少年だ。ノーマンは年齢に見合わないほどの知識を備えた読書家ゆえに、女王の計らいで侍従に抜擢される。彼をブックアドバイザー的な役割に据えて、新しい読書の扉を次々と開いていく女王。ところが、読書にのめりこむあまり、公務がおろそかになってきて、側近たちは困惑気味。口を開けば、「何か読んでる?」と尋ねてくるし、「お持ちになるといいわ」と勝手に本を貸し出すしで、それに側近たちがあたふたする様は滑稽極まりない。
おまけに、書物を通して<前よりも人の心がわかり、他人の身になってみることができるようになった>女王は、読書家としてもひとりの人間としても遙かに大きくなっていく。
その人間的成長を鬱陶しく思う侍従長サー・ケヴィンと首相の特別顧問は、あの手この手で女王の読書を阻止しようとするが、女王の興味はいつの間にか「読む」から「書く」へ。さらなる高みへ上ってしまっているのである。
それなのに、ノートにしょっちゅう何かを書き留めている女王を見て、侍従たちは<耄碌した>と捉えてしまう噛み合わなさが笑える。始終この調子で、ページを繰っても繰っても面白い。最後に女王が下した決断も痛快だ。
ちなみに、本書で私がもっとも刺激されたところは、女王の虚心坦懐に読む姿勢である。作品の出来映えだけで純然と判断することは、実は存外難しい。私自身もともすれば陥りがちなのだが、少しでも読書センスよく思われたい、知的ぶりたいがために、その作家がすでに高い評価を得ていたり、反対にデビューしたてだったり、あるいは爆発的なベストセラーをものにしたという理由で(読書家を自負する人間は、概してベストセラーを本能的に嫌う)、妙なベクトルをかけながら品定めしてしまうことがないとは言えないからだ。
ところが女王は、相手が文豪だろうと巨匠だろうと、自分の感想に忠実で、潔い。ヘンリー・ジェイムズを叱りつけてやりたいと思い、人生知の宝庫と言われる伝記文学、ジェイムズ・ボズウェルの『サミュエル・ジョンソン伝』に、「どう見ても、ほとんどは独善的なたわごとでは?」と辛辣な批評を下す女王。
プルーストに対しても、
<変わっているのは、ケーキを紅茶に浸すと(下品な習慣ね)過ぎ去った人生のすべてが蘇ってくることなのよ。実は私も試してみたのだけれど、全然効果がなかったわ>
と切り捨てる。
考えてみれば、日本でやんごとなき人物をこんなにおちょくる小説は許されない。島田雅彦『徒然王子』(朝日新聞出版)の主人公は、皇太子と思しき人物がモデルなのだが、間違ってもイギリスのように「実名」で登場させるわけにはいかないだろう。アンタッチャブルに見える領域にもユーモアの山を築き、てっぺんに超然と立っているイギリス人気質がうらやましい。
著者のアラン・ベネットは、本国イギリスでは風刺的で毒気も温かみもあるイギリス的コメディを特異とする劇作家、脚本家、俳優とのこと。知名度も人気もきわめて高い、というから、日本人に当てはめれば三谷幸喜のような存在だろうか。
にもかかわらず、日本でこれまで公開された作品は、彼が原作・脚本を務めている映画『英国万歳!』くらいのようだ。王室風刺は、ベネットの十八番というわけで、こちらもロイヤルファミリーを風刺したコメディになっている。小説では本書が初邦訳だが、ぜひこれを機に、他の翻訳も出てほしいと願う。
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