角田光代の最新長篇『三月の招待状』である。
長篇としての前二作は、ともに「事件」が物語の鍵を握っていた。
『対岸の彼女』では、主人公(正確には二人のうちの一人)の高校生のときの失踪事件が、その後の人生に大きな影を落としていた。
『八日目の蝉』は、前半は赤ん坊誘拐事件の犯人の逃亡物語であり、後半はその被害者の成長と心の揺れ動く様が描かれる。
いずれにしても「事件」があった。したがって、物語の感触はかなりハードである。
さて、その次はどうなるのだろう。グリーンを主体にした草花のイラストのカバーが醸し出すリラックスした雰囲気は、内容を忠実に伝えていると言ってもいいだろう。『三月の招待状』では、「事件」と呼ぶべき事件は起きない。前二作とは異なり、物語は日常の延長線上で展開されており、角田光代がちょっと肩の力を抜いて書いた、ということで読者も重い気分に陥ることなく読める、ただし、作者にとってはこの時期に書いておきたいと思ったに違いない小説である。
『三月の招待状』は大学生時代からの友人である五人を主役とした、彼・彼女たちの三十四・五歳の頃の一年を追う友情と恋愛の物語だ。
第一章では『三月の招待状』、充留(みつる・女性です)に、澤ノ井夫妻から「離婚パーティ」の招待状が届く。澤ノ井正道と妻の裕美子はともに大学時代以来の仲間である。
第二章『四月のパーティ』はもちろんその「離婚パーティ」のことであり、ここで、四人目、麻美は、五人目、宇田男と、二次会のカラオケ屋の踊り場で「唇を吸いあうように粘ついたキス」を交わす。
この五人の学生時代が語られ、三十四・五歳の現時点までの様子、そしてこの一年が描かれる、というわけだ。ちなみに、麻美はすでに結婚している人妻であり、充留は学生時代に宇田男に熱を上げていて、何度か関係もしている。宇田男は超のつくいい男だが、どうやら人生の全盛期を早くもその学生時代に迎えてしまっているようだ。
五人の実に微妙な関係が本書の読みどころなのでこれ以上は触れないが、女性の三人については、みんな仲良しこよしというわけではない。お互いに引け目や相手の嫌なところを感じていて、それを露骨に口には出さないものの、心中の語りとしては躊躇なく吐き出す。ここに、いかにもこの時代の作家である角田光代らしいリアリティが発揮されており、これは多くの読者に支持される理由でもあろう。(そして、これも角田光代らしいが、男は例によって、女と比べると、もはやほとんど何も考えていないと言ってもいい。角田光代の物語において主導権を握るのは男ではなく女であり、圧倒的に女の存在感が際立っている)。
学生時代の楽しかった思い出、つらかった記憶。それらは一人一人の心のなかに確実に何らかの刻印を残す。青春時代の刻印は強烈であり、それは永遠に消え去ることはないだろう。そして良きことも悪しきこともすべて含めて、たとえそこにお互いの相容れない部分があったとしても、いまやそれらは美しい永遠の宝物である。しかし、もはや三十代の半ばとなって、その宝物の箱に蓋をしなくてはならなくなる。それが歳を重ねるということだからだ。そしてそこからまた新たな関係を築き、新たな宝物として結晶させていかなくてはならないのだ。
作者にとってはこの時期に書いておきたいと思ったに違いない小説、と先に書いたが、現在、四十一歳の角田光代にとって、ほんの何年か前の生々しい皮膚感覚が創作の動機ではないかと思われるからだ。また、作者のこの年代に対する強いこだわりは、『対岸の彼女』の主役二人の年齢がともに三十五歳であることでもわかる。実は『三月の招待状』と『対岸の彼女』とは、主役たちの関係性こそ違え、この年代での止むに止まれぬリスタートを描くという点では共通するテーマを扱った作品であるといえる。『三月の招待状』が一転、日常の延長線上の展開で収まっている作品であるのは、こう考えると必然である。
さて、一年を追う物語なので最終第十二章では五月になっている。
このエンディングでの充留の語りとそれに続く一文に、本書に込められた作者の思いが集約されている。見事なまでに美しいその文章は、とても切ない。