1993年、「日野OL不倫放火殺人事件」が起きた。20代のOLが、元不倫相手の上司とその妻が外出中、彼らの自宅に侵入し放火、就寝中の長女(6歳)と長男(1歳)を殺害したのだ。世論はどちらかというとOLに同情的で、いずれ離婚すると虚言を吐き続け2度も彼女に中絶させた元上司と、追い打ちをかけるように彼女を非難・嘲笑し心神耗弱状態にさせた妻の側が激しくバッシングされた。
だが、いちばんの被害者が、殺害された2人の幼児であったことは間違いない。加害者のOLは無期懲役を言い渡され、被害者の夫婦はその後新たに一男一女をもうけたそうだが、この結末は、人々の共感を得ることができなかった。
2005年、読売新聞夕刊で連載が始まり、2007年に出版された『八日目の蝉』は、この事件に酷似している。最大の違いは、主人公が夫婦の自宅に侵入後、放火するのではなく、生後6か月の一人っ子の女児を連れ去り、4年間、逃亡生活を続けたことだ。その後、大学生になった女児とその家族、さらに出所した主人公の姿まで描かれることで、悲惨な事件は、大きな救いの物語になった。救いなんて簡単に言えるものではないが、少なくともフィクションには、現実が持ち得ない力を宿すことができるのだと私は知った。悲惨な現実を解釈する手段としての、小説家の想像力に感嘆した。
『八日目の蝉』のラストは、凄まじい境地に達している。それは7日で死ぬはずの蝉の8日目の風景であり、生きのびてしまったからには、何とかして強く生きければならないということだ。かつて誘拐犯だった女と、かつて誘拐犯に育てられた女の子。この2人は二度と会うことなく、2人の人生は二度と交差することがないまま、一方はすべてを失い、一方はすべてを受け入れたように見える。だが、その違いは紙一重なのだろう。
かつて誘拐犯だった女は、頭の中に次々と浮かび上がる懐かしい光景や人の顔を夢中で追いながら思う。「遠ざかれば遠ざかるほど、色鮮やかになる。ひとの記憶とは、なんと残酷なんだろう」
一方、かつて誘拐犯に育てられた女の子は、友人と喋りながら、封印していた記憶と初めて向き合うことになる。「口を開くたびに、自分の言葉が扉を開けるみたいに新たな光景を見せた。私は夢中でしゃべっていた」
記憶は本当に残酷だ。薄れたと思っていても、ある日突然よみがえったり、ふいに色濃くなったり。まぶしい現実のリアルさの中で過去と未来が渾然一体となるさまは、死に向かっているのか、生に向かっているのか、一瞬わからなくなるような狂気や絶望に近い。しかし、小説の中で二人が向かっているのはどうやら希望のようで、そのことに心底ほっとする。たとえ悲劇や犯罪でも、記憶の中にわずかでもいいものが含まれているのなら、そこを否定する必要はないのかもしれない。一日一日を真摯に生きた人間に、別の道はない。
さらに、無意識の記憶というのもある。本人は覚えていないし見てもいないのに、空だけが知っているというようなこと。人はすべてをコントロールできるわけじゃない。気づかないところで、奇跡は起きているのだろう。見えない力に動かされたり、守られたりしているのだろう。あがくことは無意味であり、大きな流れの中でたゆたうしかない。それが世界を肯定していくってことなのだろう。そういう感触を残し、小説は終わる。
それにしても、<とてもやさしいが毅然としたところがなく面倒なことから逃げるばかりのダメな不倫男>のせいで、女は容易に壊され、こんなところまで来てしまうんだなと思う。この小説において男は脇役であり、最初からそこに存在する悪(=他者)としてしか描かれないが、考えてみれば、この手の男が蔓延しているのは女の責任でもある。悲劇の連鎖を阻止するには、女がちゃんとした男を育てるしかないだろう。それが『八日目の蝉』の最大の教訓だ。
かつて誘拐犯に育てられた女の子は、若くして妊娠するが、相手は妻子持ちであり結婚は望めない。彼女はまるで復讐のように、自分の父親のような<とてもやさしいが毅然としたところがなく面倒なことから逃げるばかりのダメな不倫男>と恋愛してしまうのである。つまり、お腹の中の子にとっては、父親はダメな不倫男だし、祖父もダメな不倫男。この子が男の子だった場合、どんな育て方をしてもダメな不倫男になっちゃう可能性が高いじゃん!と私は暗澹たる気持ちになったのだった。
現実にも、未婚の母は多い。事情はそれぞれだが、小説に登場する2人のような男が原因である場合も少なくない。本文中にもそのことに触れる一文が出てくるが、皮肉でもなんでもなく、そういう男が今、モテるのである。母子家庭に育ち、理想的な父親のモデルをもたず、やさしくて女性的でイケメンといわれる男の子たち。私は、このような現実に対する今後の展望を示した続編が読みたいなと思っていた。
成島出監督によって映画化された『八日目の蝉』が、先日公開された。男性監督による映画化という点に私は期待したが、その期待は裏切られなかった。小説とのいちばんの違いは、かつて誘拐犯に育てられた女の子の現在の姿(井上真央)を中心に描いたことだろう。私は、待望の続編を読んだ気分になった。
冷静であまり笑わず、芯のある彼女のキャラクターは、地に足がついており、安心感を与える。<とてもやさしいが毅然としたところがなく面倒なことからは逃げるばかりのダメな不倫男>と引き替えに世に生まれた新しい女の形といっていい。かつて誘拐犯だった女(永作博美)によって育てられるという特殊な経験による恩寵のように感じられた。
彼女は悲劇的な誘拐事件の被害者でもあったが、光の源でもあった。そのことに、大きな希望を感じる。だって悲劇の源が、光の源になれるのだから。そのことに気付くプロセスは大変かもしれないけれど、井上真央の演技は、それができることを予感させる。
だから、映画をみていても、私たちは安心してこの悲劇に共感する。彼女と一緒に、すべてを無防備に受けとめることができる。この映画は、世界を受けとめるための旅だ。人は皆、いろんなことを抱えているだろう。私も、抱えているかもしれない。そのことを憎むのではなく、受けとめるための。
永作博美は、彼女をまるで<強い男>のように育てたのだ。奇跡的にそういうことができたのだ。<強い男>のように育てられた彼女の血を引く子供は、強く毅然とした子になるだろう。かつて誘拐犯だった女と、かつて誘拐犯に育てられた女の子は、悲劇の連鎖を断ち切る偉業を成し遂げた「母子」になるのかもしれない。
成島出監督は『八日目の蝉』という小説を読み、男の不在と情けなさにいたたまれなくなり、映画化によって男からの回答を出してくれたのではないだろうか? 感謝!