随分とゲームをしていないなあとふと思ったので、一通りゲーム機の揃っている(Wii以外)自室のゲーム棚からなにか適当なゲームをしようと選んでみたのだが、どうもしっくりと来るものが見当たらない。それで結局、読書やテレビ、映画鑑賞へと流れてしまう。ぼくだけでなくそんなゲーマーも多いことだと思う。ちなみに特別調査をしたわけではない。
ゲームというものに触れて二〇年強。ファミコン黎明期からずーっとその進化の過程を追いかけてきた者にとって、もしかしたらこのくらいの年月ってちょうど欲が減退するときなのだろうか。以前は六時間から八時間くらいは(時間があったからでもあるが)夢中になって遊んでいた。それが、最近だと一日三〇分ももたない。丸一日予定がない日であってもゲームを手にしない。八時間夢中でやっていたことが三〇分もできないって、これはある種、病気だ。だって、それでも新しいゲームが出る度に手に取ったり買ったりしているのだから。ゲームに没頭できない病。理由を考えてみたのだが、やはり昨今のゲームの情報量にあるような気がしてならない。
というのも最近のゲームは(ご存じだと思いますが)すごくリアルなのである。そのリアルの中で、自分の生き写しが冒険する、戦う、恋愛する、スポーツをする。次世代機と呼ばれたPS3やXbox360の初体験時その没入感たるやすさまじく、脳が新しい刺激にアドレナリン大放出の万歳三唱をしていた。だが、物事は必ず慣れる。慣れてしまう。すると今度はその情報量の多さにすぐ満腹になってしまう。
少し前に起きたレトロゲームブームは顕著にその飽和してしまった情報に対する市場の反応だったのではないかと思う。
ゲームの世界に「没入すること」を窮屈に感じてしまったことで、没入度の高くない簡素なゲームへと回帰していく、それはゲーム離れをし始めたぼくにとっても極めて納得のできる流れだった。
『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』はそんな今のゲームに膨満感を感じている人が、昔はゲームが大好きだった人が、にやにやしながら読めるゲームエッセイである。著者はコラムニストのブルボン小林。ご存じの方も多いだろうが、作家・長嶋有その人である。
本書はさまざな媒体に連載されてきたゲームコラムを一冊にまとめたものなのだが、ゲーム内容のみを単に評したりしているわけではなく、そのゲームをプレイするブルボン本人の感覚がダイレクトに反映されているところがとにかく面白い。というか、おおむねゲームを発端にしたエッセイである、といってもいい。
簡単にいくつかエピソードを羅列させていただくと(本文の方が面白いので、かいつまみます)、「シムシティ」という一つの街の市長になるゲームで、没頭した友人が言い放った「気づいたら市長を100年やっていた」という言葉にくらくら、とか、蛙が主人公の「フロッガー」というゲームは主人公が主人公なだけに、死んで次の一匹が出てきても生理的に納得、とか、超名作シューティングゲーム「グラディウス」におけるモアイ考(このゲームにはイースター島のあのモアイが出て来るのです)などなど。そのエピソード一つ一つが、「そういわれれば……」と、頷くことばかりなのだ。
取り上げるゲームがどちらかというとマイナーなタイトルになっているのは、ブルボンが「ファミコン」→「スーパーファミコン」→「プレイステーション」という道を歩かずに、「セガ」→「セガサターン」→「ドリームキャスト」といった裏道あるいは日陰、もしくはハードゲーマーな道を通ってきていたというのが大きく影響している。ただ、王道しか通ったことのない人々、もしくは大作ゲームというものしか遊んだことのない人々にしてみれば、「楽しみ方の分かりづらい(マイナーな)ゲーム」を前から横から斜め後ろからと、様々な角度で思索、検証しているので、「こんなゲームがあったんだ!」とゲラゲラ笑うこともできるし、ブルボン氏と同じく裏道を歩んできた人にしてみれば、「そうそう」とほくそ笑むことができるのである。
本書の特色のひとつは、回顧厨(故きものばかりを重んじる人間)としてではなく、純粋にゲームの、かつて持っていたような様々な遊び方、様々な解釈、を思い出させてくれる、ということである。どうしてあのゲームは爽快だったんだろうとか、あの音はどうして今も覚えているんだろうとか、そういうことを考える発端を、あるいは核心をこの一冊は語っている。本文を通じて、読者はかつて自身が体験してきたものをそれぞれで思い返し、ブルボン氏の考察を自らのゲーム体験に置き換えることで新たな視点が付加される。自分の中の宝箱がグレードアップするような、ホクホク感が味わえるのである。
もうひとつの特色、それはブルボン氏が、また文庫版の解説を寄せている吉田戦車氏が、また本文の冒頭にあるぼくや、多くのゲーマーだった人たちが感じている「なんだろう最近の、ゲームしてるときのこのぼんやり感は」という問題の回答を一つここに示していることだろう。
本来ゲームはその遊ばれる環境も含めて、「ゲーム体験」と呼ばれていたはず。友人と、家族と、一人ででもそうだが、ゲーム画面だけでなく、その居住空間や時間、ゲームを買うまで、何かの合間を縫ってゲームをするまで、攻略法の考察、などなど全てがゲーム体験だった。ドラクエの行列に参加したり、掃除機にゲーム機のコンセントを抜かれたり、マリオをジャンプさせる度に「ほっ」と言ってコントローラーを持ち上げたり、レースゲームで体ごと傾けたり。それを見て笑ったり怒ったりした体験の全て。ゲームとはパーソナルでありつつ、ソーシャルでもあった。そのソーシャルな、ワイワイ感を、本書は呼び起こしてくれている。ブルボン氏がプレイしている横で話ながらそのゲームを見ている感覚になれるのである。
個人で「没入」することが悪いことではない。それはそれで至福である。だが、ゲームという娯楽を見て笑ってくれる「他者」がいなくなったらそれはゲームではなく、「娯楽」ではなく、「自身の人生」そのものになってしまいはしないか。
本書が示してくれているのは、「娯楽としてのゲームの遊び方」であり、それは極めてゲームに対する、またゲームをする人に対する、慈愛に満ちた視線を持っている、と感じる。だから本書を通じて分かるのである。ぼくはゲームをしなくなったけど、それでもゲームが好きなんだなあ、と。ぜひそんな方へおすすめしたい一冊。あ、もちろんあまりゲームをされない方も、ブルボン小林氏の独特の感覚を楽しんでいただけること確実。これを入り口にゲームの世界へ踏み入れるのも一興であります。