星新一の『進化した猿たち』は、アメリカの一コマ漫画を画題ごとに分類した、マニア心をくすぐる好エッセイだった。特に無人島テーマの作品が多かったような記憶があるが、私の印象に残ったのは、精神分析医と人喰い人種、そして露見した浮気のテーマだった。
精神分析医というのは、おなじみのあの寝椅子に座ったクライアントと医者が話をしているというもの。人喰い人種ものというのは、焚火にかけられた鍋の中で、今まさに食われようとしている白人と原住民という構図のものだ。白人たちを見ながら原住民が、「もうすぐ日食が始まるが、俺たちが慌てないのであいつらきっとびっくりするぜ」なんて話している体のやつですね。
そして露見した浮気テーマというのは、建物の窓の外にある、あれはなんというのか張り出した足場のところに下着姿の男が立っていて、中には女と帰宅あそばした彼女の夫がいるというものだ。つまりいいところで邪魔が入り、間男が外に出された、という構図である。私は高所恐怖症なので、そういう目に自分が遭わされたら、と思うとそれだけで目が回る思いがする。落語に「風呂敷」という、間男が押入れにとじこめられてしまう話があるが、閉所恐怖症気味でもあるので、あれもごめんだ。いや、間男なんてしないけど。
ジュリア・スラヴィン「まる呑み」という短篇を読んで、そんなことを連想した。この話は、庭の草刈りにきたクリスという若い男とディープキスをしたサリーが、興奮のあまり彼を飲み込んでしまうところから始まる。どういうわけだかクリスは無事なのだが、出て行ってもらいたいと頼んでも駄目なのである。体の中に居座ってしまう。仕方なく彼女は、夫に内緒で体内に若い男を住まわせ始める。しかも困ったことにクリスはおとなしくしてくれず、おいたを始めるのだ。サリーの「ワンピースのおへその上あたりで、クリスの勃起したペニスがテントを作ってい」いて「彼はそれを私の内臓にすりつけ」たりする。
「すっげえイイんだよ。あんたの大静脈、めっちゃ具合いい!」
だって。
岸本佐知子・編訳の『変愛小説集』は、こうした奇妙奇天烈な小説を集めたアンソロジーである。統一の主題は「恋愛」だが、そのアプローチはさまざまだ。人間が非人間と恋愛、婚姻をする異類婚譚という主題があるが、このアンソロジーには木に心を奪われてしまう人の話(アリ・スミス「五月」)や、妹のバービー人形に誘惑されて深い仲になってしまう(A・M・ホームズ「リアル・ドールズ」)などが含まれている。「五月」のほうは、木に心を奪われてしまう人物と、彼、もしくは彼女のルームメイト(訳者によれば、原文は性別が判然としない書き方になっているらしい)の関係が一つの鍵になっていて、ステディなパートナーがいながら他のものに心を奪われてしまう思いの物狂おしさを、「木」というそっけないものへの執着として書くことで際立たせる意図のようにも読めるし、単に作者が変なお話を書きたかっただけのようにも見える。読解の自由度が高い作品が集められているのも本書の特徴だ。
「リアル・ドールズ」のほうは、とにかく男根の始末が悪く、主人公がなんとかして挿入を果たして思いを遂げようとするあたりから、男根主義者を冷笑しているようにも読めるし、やはり単なる変な話のようにも読める。バービーの首のところを外すとぽっかりと穴があくので、そこが唯一の膣の代替となる。成り行き上バービーのボーイフレンドであるケンの穴につっこんで放出してしまい、「ケンとたったの一度、ちょっとああいうことになったってだけで、もう将来ゲイとして生きていくか決めなくちゃいけないんだろうか」と思い悩むのがなんとも可笑しい。可笑しいといえば、この小説は主人公である「僕」の年齢は不詳だし、その妹はなんだかものすごく抑圧された性衝動を抱え込んでいるみたいに見えるし、悪夢のような「お兄ちゃん」小説である。ジョージ秋山『ピンクのカーテン』の変形譚みたいなものなのだろうか。収録作品ではもう一つ、ジュディ・バドニッツ「母たちの島」が、レイプによる望まれざる妊娠を扱っており、男のセックスを嘲笑っている(ように見える)小説だ。作品の感じはアレクサンダー・ケイ『残された人びと』(『未来少年コナン』の原作ね)と夢野久作『壜詰の地獄』を融合させたようである。透明な語りと、向こうに見えている残酷な現実との重ねられ方がよい。
実はこの本、小学校の読み聞かせの時間に使えまいかと思って再読したのである。もちろん「お兄ちゃんがバービーとセックスしたくなる話」なんかは使えない。読もうと狙っていたのはレイ・ヴクサヴィッチ「僕らが天王星に着くころ」という作品だ。人体が宇宙服になってしまう奇病が流行し、病状が進むと体の各所が銀色のあれに変化してしまう。全部が宇宙服になると体が浮き上がり、宇宙へ向けて飛んでいってしまうのだ。妻がそういうことになってしまった男の苦悩の日々を描いた作品で、筒井康隆『佇むひと』のような静謐な哀しみに満ちているのに、終盤になると不思議な多幸感が出てきて、文字通りハイになってしまうのがすごいところだ。「哀しすぎて笑う」小説である。これを読み聞かせたかったのだが、尺が合わなくて果たせなかった。残念。
収録作十作すべてが奇妙でおもしろく、一つも外れがないという珠玉の短篇集だ。ニコルソン・ベイカーの作品(「柿右衛門の器」)がいちばん普通に見えるというのが常軌を逸している。恋愛小説を定型から解き放ち、自由に「愛情の形」を表現させようという編者の狙いは成功している。笑いを催すポイントがよいバランスで配置されているので、全作品を読み通すと、調子のよいソネットを読んだかのような、朗らかな気分に浸ることができる。その甘美な感じの中に紛れ込まされているのが、なにかを永遠に失ったような気がする、という正体不明の喪失感だ。恋愛とは「なにかを求める」感情の結晶だから、つきつめていくと、その求める感情だけが突出して印象に残るのである。求めて得られず、また得たと思うものが指の間からすり抜けていく。そうしたきりのないもどかしさ、永遠に終わらぬ流れの中にはまりこんでしまった者の狂おしい憔悴が、本書の中には流れているのである。もどかしいから、焦がれるからこそ快感も大きいんだけどね。
媚薬のような味わいがあり、バイアグラ一錠呑むよりよほど興奮する。あー、やっぱり思春期の少年少女に読み聞かせるべきだったかも。