『どこ行くの、パパ?』の作者、ジャン=ルイ・フルニエは、フランスのテレビで放映されたコメディ・アニメの原作者であり、二百本以上のドキュメンタリーの制作にも携わった人だという。そのフルニエが、出版社・ストック社の社長に勧められて書いたのがこの本だ。関係者の予想をはるかに超える反響があり、フランスの権威ある文学賞・フェミナ賞を受賞するに至った。
洒脱なユーモアでひとびとを楽しませてきたフルニエには、実は二人の障害児の息子がいた。二歳違いの兄弟、マチューとトマだ。身体および知能に重度の障害を持つ二人は、文字を読むことができないし、そもそも非常に低い視力しか天から授かっていない(マチューにいたっては聴力さえなかったという)。脊柱を固定するコルセットの助けなしには体を支えておくことだってできないのだ。障害の代わりに何かを授かる、というような運命との取り引きなどもちろんなかった。三重苦の少女が家庭教師の先生から言語を教わるというような奇跡も、二人の人生には起こらなかった。『どこ行くの、パパ?』は、その二人の息子との日々が書かれた小説だ。短い章が連なるコントで、緩やかな編年体の形をとっている。
フルニエの祖母は、二人を奇跡が起こるというルルドの泉に連れて行くよう勧めたという。フルニエは言われたとおりに行動するが、もちろん神が自らのミスを認めるはずがない。また、部外者はいろいろなことを言う。障害がある子が生まれたのは何かの報いだという者がいれば、「障害のある子は、天からの贈り物だよ」などと言う連中もいるのである。自身が障害を持つ子の親でない限りは、何だって言える。そして障害を持つ子の親であるフルニエの言動にも、そうしたひとびとはクレームをつける。
マチューとトマの父親としてテレビ番組のゲストに呼ばれたとき、フルニエは子供たちがへまをしてよく笑わせてくれることや、人を笑わせるという心の贅沢を障害児から取りあげてはいけないということを強調した。「障害のある子が誰も笑わせないなら、それは、自分を見て笑ってくれる人をけっして見られないということだ。または、自分を嘲る愚か者の笑い顔しか見られないということだ」と考えたからだ。放映では、その部分はすべてカットされた。世間では「障害がある子の父親は、葬式のときのような顔をしてはいなくてはならない」のだ。「障害がある子がふたりなら」「二倍不幸そうにしていなくてはならない」。
しかしフルニエは、あえて自分と子供たちの境遇を笑おうとする。「障害児のことを話すとき、人は悲惨な事故の話でもするような顔になる。だから僕は一度だけ、笑顔できみたちのことを話したい」と。
――マチューは体を起こすことができない。姿勢を保つための筋の緊張状態や収縮が足りなくて、布製の人形みたいにぐにゃぐにゃだ。これでどう発育していくというのか? 大きくなったらどうなるのか? 添え木を当ててやらなければならないだろうか。
自動車修理工にならなれるかも、と思ったことがある。あおむけに寝たままの修理工。車の作業用昇降台がない工場で、車体の下にもぐって働くのだ。
――最近、おおいに心を揺さぶられたことがあった。マチューが読書に没頭していたのだ。すっかり感激して、僕はそばまで行ってみた。
本は、さかさまだった。
残酷な笑いだって? たしかに。フルニエが息子たちをネタにした冗談の中には、いわゆるシット・ジョークに属するように見えるものもある。ぎょっとし、そこでページを閉じてしまう人はいるだろう。フルニエ自身、悪趣味な笑いであることは承知している。
――おい、ジャン=ルイ、おまえは自分のこともままならない小さなふたりの子どもを冗談のネタにしたりして、恥ずかしくないのか?
恥ずかしくない。そんなことで、愛情は減ったりしない。
フルニエの中には渦巻く感情がある。中でももっとも大きなものは、そうした状態で二人の子供を世に送り出してしまったという自責の念だろう(おそらくはマチューとトマの障害が遠因となり、フルニエは妻と離婚してしまっている)。そして、二人と永遠に意志の疎通ができないという運命を怨み、憎む気持ち。「きみたちがもしみんなと同じだったら」という同じ書き出しで始まる断章からは、胸を突き刺すような哀しみが立ち上ってくる。
きみたちがもしみんなと同じだったら。
決して許されることがない「もし」、叶えられることが絶対にない「もし」だ。
そして、フルニエは正直に告白する。「よその誕生通知を受けとるたびに、返事を出したくないと思う。しあわせな勝者を祝いたくなどないと」。世界でもっとも報われない感情。それは嫉妬だ。
本の題名である『どこ行くの、パパ?』は、車の後部座席に乗せられたときのトマが、口にした言葉だという。それに対するフルニエの答えを、トマは記憶できない。フルニエが「おうちだよ」と答えたその一分後、また同じ言葉を繰り返すのだ。
――どこ行くのパパ?
高速道路を逆走しようか。
アラスカに行こうか。で、クマをなでて、食われちまおう。
キノコ狩りに行こうか。で、猛毒のタマゴテングダケを摘んで、おいしいオムレツをつくろう。
プールに行って、高い飛びこみ台から、水のないプールめがけて飛びこもう。
海に行こう。モン・サン・ミッシェルに行こう。不安定な流砂のなかを散歩しよう。足をとられて動けなくなろう。地獄へ行くんだ。
思わず死を願いたくなるほどの絶望。それもフルニエの胸を何度も去来した感情だったはずである。
フルニエは笑いという武器の力を借りて言葉と切り結ぼうとしている。言語は世界の象徴である。世界の重みで押しつぶされそうになった心を、フルニエはその言葉を用いて救おうとしている。世間には空虚な言葉が満ちていて、そうした虚しいもので置き換えられた途端、心は心であることをやめてしまう。他人の心をそうした無残な言葉で満たしてしまおうという暴虐を、フルニエは断固として拒否する。そして、自らの言葉で事態を語ろうとするのである。借り物の言葉で綴られたお涙頂戴話にはない、強く心を揺さぶるものがこの小説にはある。もしかすると不謹慎に見える〈笑い〉の要素に、衝撃を受けてしまう人があるかもしれない。しかし小説の皮相だけを見ないでほしい。フルニエがどんな願いを持ってここにある言葉を搾り出し、書きつけたか。この形でしか表すことができなかった思いがあるということから、目を背けないでもらいたいのだ。
――ピエール・デプロージュのコントのなかでも忘れられないものに、彼が子どもたちに仕返しするというのがある。母の日と父の日にくれたひどいプレゼントに対して。
僕にはそんな必要はなかった。なにかをもらったことなど、そもそも一度もなかった。プレゼントも、ひとこと書いてあるカードも、なにも。
もしその日、マチューがヨーグルトの空き瓶で作った小物入れをくれるなら、僕はどんなことでもする。マチューはうす紫色のフェルトを瓶に巻きつけ、そこに、自分で金紙を切り抜いて作った星を貼ってくれているんだ。
もしその日、トマがものすごくがんばって、やっとのことで書き上げた〈だ い す き〉というカードをくれるなら、僕はどんなことでもする。
付記:ブックジャパン強化週間継続します。杉江は今週も毎日書評を掲載する所存です。おひまなときにでも、覗いてみてください。