畠山直哉の写真集は、『Underground』を持っている。
東急東横線沿線にお住まいの方はご存じだろうが、あの電車は、代官山から次の終着駅、渋谷に向かう途中、線路が左へ大きく曲がって、小さな川と並走する。高架の下方をちょろちょろ流れる、ドブまがいの小川の名前は渋谷川といい、渋谷駅の下あたりで暗渠に変わる。渋谷はその名のとおり本来の地形は谷で、地下に多くの流れを抱えている。東横線の車窓から見ていると、その川が、人々が歩いている地表から五メートル下の、暗い流れへと吸い込まれていく場所がはっきりと判る。電車はそのまま渋谷駅に到着し、多くの人はドブ川のことを忘れ去る。だが畠山は、その地下の川へと降りたのだ。『Underground』は、その地下の渋谷川を撮影した写真集である。
折にふれて『Underground』を書架から取り出し、その静謐な情景を眺めていた。印象的なのは、本書に収録されている作品の多くが、水面の反射を利用して、上下対称の鏡像として撮影されていることである。写真の中では、渋谷の街が上下に広がっていく。実像と鏡像を隔てるものは、一本の水平線だ。
この写真集のことが念頭にあったので、畠山直哉『話す写真』が刊行されたときには、すぐに購入を決めた。これは畠山が各地で行った講演録を集めたもので、内容は多岐にわたっている。写真家の言葉を文字に起こしたものだからといって、特に技術論に偏っているわけではない。写真芸術文化の歴史を概観した「写真をはじめから考える」、建築写真について考察した「写真家の建築」などの章に関しては、別稿を期してここでは割愛しておく。カメラという言葉の語源であるラテン語のCameraは、部屋や寝室を表す言葉であり、暗い空間に入り込んでその中を撮影するという行為は、それ自体が入れ子構造の比喩になっている、といった興味深い指摘が、それらの章には多く含まれている。カメラの歴史を語るとき、畠山はカメラという言葉の内部へ内部へと入り込んでいき、幾重にも壁が張り巡らされた部屋の中に心地よい空間を作って、そこに腰を落ち着けているように見える。その空間の中では自由に空想を働かせることができそうだ、というのがこの稿を書きたくなった、第一の理由なのだ。
写真家としての原点を話す「私の場合」という講演録の中で畠山は、恩師である大辻清司から、「説明的な要素をできるだけ省いてみたらどうですか?」という示唆を受けたと話している。写真家の意図を円滑に伝えるためには情報をできるだけわかりやすく伝えることが大切だと思いこんでいた畠山には、それは大きな驚きを与える言葉だった。
写真は「自然科学的なプロセスによって自動的に生まれる映像」だから、もともと「非人間的な側面を持っている」。「愛している人の写真も、自分が無関心な人の写真も、同じような完璧さを備えて現れ」、「目で見ている外界が、意味によって序列されているのとは異なって、写真の中の世界は、まるきり公平」である。その公平さ、言い方を変えれば、人間の手の届かない領域にあるという非人間性が、写真の魅力であると畠山は考えるようになったのだ。
「「川の連作」について」の章では、私の心を強い力でとらえた『Underground』が、実は人間の目がとらえた風景を、そうした「人間の手がまだ触れない」領域へと還元する試みの一つだったことが明かされている。人間が目で見た三次元の広がりを二次元へ定着させるために発達させた理論に一点透視法があるが、カメラとはそれを装置として具現化させたものだといえる。しかし畠山は、その自明のことに疑念を唱えてみせる。
――これって、意外に不自由なことじゃないか? 世の中には、世界を異なった「パースペクティブ」、つまり異なったものの見方で眺める方法が、もっとほかにあるんじゃないか?
そこで畠山が例示するのが冒頭に紹介した、中心に水平線のある、あの川の写真である。上の実像と下の鏡像、水平線をはさんで線対称になった、あの写真だ。
――(前略)では、この水平線だけに注目した場合、そこにイリュージョンとして現われているのはなんでしょうか? それは、上に写るビルに見られるような単純な、なじみの奥行きではなく、カメラという一点透視装置によって「奥行きが単なる線に還元されてしまった状態」でしょう。この奥行き=線は、写真として定着される以前、カメラの磨りガラスに光学像として映っている段階で、すでに二次元化していた、と言えます。つまり、すでに写真や絵画のレベルに、位相を変化させていた、と言える。
カメラによって写された像に人間が意味を与えているのではなく、人間が目にする以前から(なぜならば、カメラの内部に結ばれた像を人間が見るためには、現像という過程を踏まえなければならないから)写像はそこにそれとしてあった。そのことを考えるとき、カメラという存在の非人間性というものが際立ってくるのだ。
カメラというものを引き合いに出しながら、私は意図的にそれを人間の用いる「言葉」に重ねてこの文章を綴っていた。私が所与のものと思っている言葉の可動域は、本当に言葉本来のものなのか。文章という表現形式が人間本位のものであるというは本当なのか。言語の中心にいるのは本当に人間という存在なのか。そうしたことを考えるとき、畠山がカメラという言葉の中に切り拓いた、小さな部屋の存在が羨ましく感じられる。『話す写真』という本を読みながら、私が意識し続けたのはそのことだった。畠山がそうしたように、私も小さなカメラの中に自身を追い込んでいく。
付記:あえて思考中の本、内容を咀嚼しきれていない本の書評を書いてみた。上にも書いたように、自分のためのツールとしてこの本とはしばらくつきあっていきたい、と考えたからだ。こうした具合に、自分のためのツールを他者と共有するための手段として、書評という行為を利用するというのも有意義なのではないだろうか。