「共通項のある書評」として、「群衆の中の孤独」をテーマに、三冊について書く。
夏目漱石の前期三部作は、近代日本のインテリが辿る運命を追った小説群である。大学生の青春物語『三四郎』は上京小説であり、続く『それから』は三十路男の遊民小説、『門』は、犯した過ちに負い目を感じ、逼塞する夫婦者のひきこもり小説として読めるだろう。そこには明治の東京が横たわっている。主人公たちは、東京へ「やってきて」→「むなしく回遊し」→「落ちこぼれていく」のである。
『三四郎』と『それから』は、鉄道と駅が重要な役割を果たしている。『三四郎』では冒頭で、『それから』ではラストで、それぞれ主人公は電車に乗っている。『三四郎』の主人公・小川三四郎がたまたま乗り合わせた女と名古屋で同宿することになり、その夜まったく手が出せずに、翌朝、あの有名な科白を浴びせかけられる場面を引いてみよう。
「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と云って、にやりと笑った。三四郎はプラット、フォームの上へ弾き出された様な心持がした。(中略)。大きな時計ばかりが眼に着いた。三四郎は又そっと自分の席に帰った。乗合は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない。只筋向うに坐った男が、自分の席に帰る三四郎を一寸見た。
三四郎は東京の手前の名古屋で早くも洗礼を受けている。これから三四郎が向かう場所は「三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない」世界であり、そして鉄道という近代の装置の中でこそ発生する匿名の乗合=見知らぬ群衆の中で、いっそう孤独は深まるのだ。
三十路を迎えた『それから』の長井代助となると、さらに苦渋の色を帯びてくる。職につかず、不倫などもしているこのダメ男は、兄から罵倒され、「門野さん。僕は一寸職業を探して来る」と言って「日盛りの表」へ飛び出す。向かった先は飯田橋駅である。
飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、
「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞こえる様に云った。
このあと代助は、電車の中から「赤い郵便筒」「赤い蝙蝠傘」「真赤な風船玉」など、ことごとく赤い色彩のものばかりを目視してしまう精神状態に陥る。ここでは車窓から見える世間(それらは何ひとつ代助と係わりを持たない)の大海に手ぶらでジャンプした、火だるまの代助の姿が認められる。
漱石が「男子」の時代である明治にインテリの孤独を見出したとすれば、時代が昭和に下り、第二次大戦の陰の下、奇妙な明るさが内部から差してくるような女言葉の小説を連発したのは太宰治である。
たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。眼の前を、ぞろぞろ人が通って行く。あれでもない、これでもない。私は買い物籠をかかえて、こまかく震えながら一心に一心に待っているのだ。私を忘れないで下さいませ。毎日、毎日、駅へお迎えに行っては、むなしく家へ帰ってくる二十(はたち)の娘を笑わずに、どうか覚えておいて下さいませ。
二十歳の女が毎日駅に行き、何かを待っている。ただそれだけの、小説としてギリギリ成立するかしないかの掌編「待つ」。駅の改札から吐き出されてくる通勤客の奔流をたった一人でポツンと受け止めることで、女の熱と孤独の輪郭が生きてくる。女は、「現れた時には仕方が無い、その人に私のいのちを差し上げよう」と考えている存在だ。
『三四郎』『それから』の男たちは電車に乗ってどこかへ行こうと試み、手がかりの無い世間の中で自分の行く末をどうにか構築しようと考える。いっぽう「待つ」の女は、もう電車には乗らず、なにも作らず、ただ運命を待っている。
男は決めようとしており、女はとうに決めている。そのような個の描かれ方として、「群衆の中の孤独」を読んでみた。