3月は別れの月だ。そして、あたらしい生活を始める月。三寒四温とこの国では言うけれど、体感としてはどうも五寒二温くらいの感じで、不安が7、期待が3? いやいや、もちろんそんな単純な話じゃないよね。ほんとはもっとグシャグシャしていて、なんだかお酒を飲む機会も多かったりして、わりと体調悪いかも……なんて、それが3月。
丁寧につくられたことが一目でわかるカバーの、そこにある部屋の写真は左側の窓から光が侵入してきていて、しかしけっして放射状の線をつくらない、弱い大気のような光だから、こんな畳の部屋を見て、なにかを感じる人、そこに自分が居てもいいんじゃないかと、そういう人のための、これはほんとに、たいへん、いい本です。
北側の窓を半分覆っている木には黒い実がなります。私はその木の名を知らないけれど、実を目当てにときどき鳥がやってくるので、木には一方的に親しみを持っていました。すりガラスの窓のすぐ外、驚くほど近くで鳥の声を聞くこともできます。
これが、「私」の生活。木って、「一方的に親しみを」持つ以外に方法があるかしら? などと思いもし、いやもしかしたらあるかもね、と思わせる何かがありそうな、このセンテンス。
「私」はふとした偶然から、牛込(と、言ってピンと来なければ神楽坂あたり)に心惹かれる物件を見つける。「築四十年、家賃四万円、風呂ナシ、個別トイレ有り、和室六帖にキッチン三帖弱」の「理想的な物件」だ。どうもこのアパート、正式な名前が無いらしく、「私」は大家さんの名前が加寿子なので、「こっそりと」加寿子荘と呼んでいる。
加寿子さんは推定八十歳。たいへんなきれい好きで、穏やかなやさしい人柄、話すときはやわらかく「ウフフ」と笑うけれど、家賃の支払いが遅れることには厳しいようだ。それは加寿子さんにはとてもだらしない行為に映る。「私」は加寿子さんがどんな人なのか、アパートの他の住人が何をしている人たちなのか、人並み以上に関心を持つものの、積極的に踏み込むようなことはしない。「私」が住み始めた(平成十四年ごろ)時から数年後には、「神楽坂」という地名はいささかブランド化し、フランス人が多く住んだりもして人気の町になっていくのだけれど、それに対しても「神楽坂駅のそばです」とか「牛込って言われるようなところです」などと、「ついぼかしてしまう」。そんな「私」の部屋と暮らしのお話が、ここには書かれている。
「私」はOL(著者は「オーエル」と表記する)をしてみたり、デザインをやりたくて昼間のOL仕事とは別に、「センスがない」と思いながらも下北沢のデザイン事務所に出入りしたりしている。特に人嫌いではないがポジティブでもなく、自分を磨くためにいろいろ投資しているような女性から見れば、基本的には地味で不活発だ。お酒は好き。下北沢のデザインのお師匠さんが不思議な人で、とにかく自分ひとりでやったほうが早く片付くし、仕上がりもいいに決まっている仕事をわざわざ「私」に回したりして、しかもすぐに二人で飲みに行ってしまうから、さてそんな毎日でいいのか? と思いつつ、日々は過ぎていく。
わたしはあるとき人に青空が似合わないと言われたけれども、そしてそれは一片のためらいもなく肯定しますけれども、でも実際のところ青空だいすきなんですよ。春から初夏にかけての陽光がだいすきだし野の花も愛でますし、ね、ほんとうですよ。
わかってますってば! と思いつつも、これが卑屈さとは別のところから来ているものだということが、なんとなく理解できるような気がしないだろうか? 卑屈さというのは、いわば、期待の裏返しだし、もっと言えば、期待が成就しない可能性への先手必勝にすぎない。ここにはその態度がない。「私」の思考は、「青空が似合わない」→「つまり、室外が似合わない」→「加寿子荘は晴れと畳でできているという認識」→「加寿子荘を愛していて、そこに住んでいることが幸せな私」と、つながっていくのだ。
大きな出来事が起こらない、よく言われる言葉を使えば「淡々とした日常」が続くような日々はもちろん、何も変化が起きていないはずはなくて、「私」の体には2回、メスが入る。それはきっととても大きな経験のはずなのに、「私」は騒がない。諦観とか、冷静さとは違う。たぶん私は、うまく騒げない、不安や恐怖を他人にわかりやすく表出できない人間なのだ。二つの手術のうちの一つは、アパートの階段を登れなくなるほどの、心臓の失調。そして、もう一つは……。
こんな大好きな建物を、私はたった一年で出た。
それは、私が性転換をすることにしたからです。
なんの前振りもなく、唐突にあらわれる「性転換」の三文字。しかしそれは、センセーショナルに波風を立てることを極力廃し、そのことに向かって文脈を次第につくっていくこともイヤなので、まあ、唐突だけどここで言っちゃいます、という、ポン、と置いた感じの「性転換」だ。「結局私は性同一性障害と診断され」たわけだし、まあそういうことですよ、という、慎みのようなその軽さ。
読者は、その軽さに、おそらく試されてしまうのではないか。これがもっと重かったら、叫んでいたら、連帯していたら、求めていたら、態度を決めるのは案外、難しくないかもしれない。読むわれわれは彼女を「向こう側」に立たせてしまい、それでも理解のあるような態度を取り、差別や偏見をできるかぎり持たない人間でありたいと願いもする。性同一性障害「だから」、彼女の日常にいろいろうまく行かないことが起こるわけではけっしてない、などと思いながら、案外、泣けるエッセーとして読めたりするかもしれない。
加寿子荘には洗濯機がないので、コインランドリーまで歩いて一分の道のりを毎週洗濯にゆきます。
ある日、わたしが衣類を洗濯槽に抛りこんで一旦うちへ帰るときにちょうど雨がザッと降りはじめました。家までは一分の道のりだからわたしはさっさと駆け帰ればよかったが、その途中、戸の閉まっている畳屋の軒先の、人が入りきれないようなせまい空間にひとりのおばあちゃんが半分ぬれながら雨やどりをしていて、空だとか濡れゆく路面だとかじぶんの行く先だとか左見右見(とみこうみ)して素晴らしい表情をしていました。
「私」(ここでは「わたし」とひらがな表記だが)はこんな事柄を見ている人であり、それが白湯のようにサラサラしたタッチでこう書かれ、読者はそれを読む。そのなんでもなさ、その軽み、その不確かさを、『お家賃ですけど』を読む側の一人として、忘れずにいたいと思う。おじいちゃんではなく、おばあちゃんであること。「じぶんの行く先」の「じぶん」とは誰なのかということ。加寿子荘の加寿子さんもおばあちゃんであることを、それはたぶん……などと「邪推」しながら、それでもできるだけ自由に、気ままにこの本が読めたらいい。
もしあなたが、この春から生まれて初めての一人暮らしをしているのだとしたら。もしあなたが、何度目かの引越しの末、あたらしい土地にまだ慣れずにいるのだとしたら。もしあなたが、理由もなく眠れない夜の中で目を見開いて、その時、隣に誰もいないのだとしたら。もしあなたが、家族と一緒に住んでいるけれど、一人暮らしの兄弟や友人や知人や近所のあの人を気にかけているのだとしたら。
『お家賃ですけど』は、たぶん、あなたの本です。