★ヤクザとゲイと論理学と
たとえばあなたは、ヤクザが風俗に女の子を紹介したとき、いくら懐に収めるかご存知だろうか。あるいは新宿二丁目にあるという、ゲイが白昼堂々と乱交状態を演じる銭湯の存在をご存知だろうか。
また、あなたは「固有名がなぜ固有名として語り伝えられることができるか」という、論理学上の議論をご存知だろうか。あるいは、写真を評する際によく言われる「決定的瞬間」という言葉が、本来は大事故や災害の瞬間を指すのではないことをご存知だろうか。さらにはgoogleの検索窓に「人生、宇宙、すべての答え」と入力すると、「42」と表示される……ことは、これはSF好きの方ならご存知かもしれないが、知らない人の方が大多数だろう。
私の場合、前の二つの事項については、まったく知らなかったし考えたことすらなかった。調べてみるとゲイの銭湯というのが新宿には、実際に複数存在するらしい。おそらくはヤクザと風俗の関係も、ここに綴られている通り、きっと事実なのに違いあるまい。
そう、ここに挙げた事柄はすべて、海猫沢めろんの小説『愛についての感じ』に綴られていることなのだ。読み終えて私は「この作家の頭の中は一体どうなっているのか」と呆然とした。固有名の議論や写真論、SF小説に関するトリビアだけなら、まあまだわかる。だが、そうした「いかにも文化系」なトリビアルな知識を、ヤクザのシノギの仕組みやゲイ銭湯の話題と同時に、平然とその脳中に収め、自由自在に創作の中に活かすことのできる人物とは、一体どういう人生を送った人なのか。
★すべてテイストの異なる五編の恋物語
大急ぎで補足しておくと、本書は決してエログロと難解なトリビアに満ちあふれた悪趣味な書物ではなく、むしろせつない恋物語の連作である。しかも本書中に収められた五編の短編は、いずれもまったくテイストが異なっている。
たとえば冒頭の「初恋」は、固有名を失って「レザーフェイス」という名前になってしまった男の恋愛を描く、一種の不条理小説だ。二つ目の「ピッグノーズDT」は、洋楽好きの文化系男子のくせに、なぜかホストをしている非モテ男が、どえらい目に遭うラブコメディである。オタクのくせにホストという主人公のモデルは、おそらくは海猫沢本人。つまり私小説なのである。
三つ目の「シュガーレイン」は、全身に火傷を負った誰からも愛されない男と、親から見捨てられた子どもたちの物語。「オフェーリアの裏庭」は、電波系のパワーストーンの店を訪問するうち、なぜか主人公が過去の恋愛を思い出してしまい……という筋立ての、抱腹絶倒のコメディーで、これもまた私小説だ。
圧巻は最後に収められた「新世界」。文字通り、大阪に実在するドヤ街「新世界」を舞台にした、ヤクザと風俗嬢の悲恋の物語だ。新世界を行き交う労働者やヤクザ、ドヤ街の人々にくわえ、新世界に隣接していまも現存する遊郭街、飛田新地についての緻密なリサーチ(実体験も含む、か?)の上に、この作品は成り立っている。しかも物語の端々には、かつての松竹新喜劇を彷彿とさせる、古き良き「本喜劇」の感覚、笑いと涙までもが溢れているのだ。
★多様な文体と「恋愛」というテーマ
物語の筋立てがバラエティーに富んでいるというだけではない。文体もそれぞれ驚くほど違う。若者言葉と膨大な洋楽ミュージシャンの固有名が散りばめられた、ブログさながらの文体で綴られる作品があるかと思えば、大江健三郎にも似た周到なレトリックが張り巡らされた作品がある。過剰なギミックに満ちあふれた作品があるかと思えば、自然主義的でストレートな文体で綴られる作品がある。まったく読んだ手触りが違うのである。
海猫沢めろんという人は、もともとSF作家である。しかも彼はこうした創作と並行して、文科百般を論じる批評家としても知られている。これを本当に全部同じ人物が書いているのか。これはひょっとしたら、とんでもない作家が出現しているのではないか。
しかも、これだけバラエティーに富んだ作風を示しながら、本書の連作には一貫したテーマが流れていて、それが全体に一つの核を作ってもいる。本書に登場する主人公は、いずれも自分の恋愛感情をうまく受け止められない、アイデンティティーの危機を抱いた人物ばかりなのだ。
レザーフェイスという名前になってしまった男をはじめ、非モテの童貞ホストや全身に火傷を負った男、作家志望の無職の男に、出所してきたばかりのヤクザ。本書の主人公となる男たちは、誰も彼もが「フツー」の範疇からはずれ、社会と折り合いをつけることができず、他者をうまく理解できない。だが、おそらくはすべて作者の分身と思しき彼らは、恋をする。本書はこの他者との出会いの瞬間を、いずれもテーマにしているのである。
★愛についての「感じ」、その不可能性
彼らは他者との交わりから自らを閉ざし、精神の独房に引きこもるかのように暮らし、恋愛という他者との出会いの前に立ちすくむ。自分自身のなかに沸き起こる、見慣れぬ感情の波立ちを前に、うろたえ、とまどい、その多くは自滅を遂げてしまう。
本書のタイトルは『愛についての感じ』であって『愛について』ではない。それは本書の主人公たちが、愛という存在についてまったく無知であり、これが愛なのか、それとも別の感情なのかと逡巡し、立ちすくむところから来ているように私には思える。社会学者の大澤真幸の言葉を借りるなら、まさに「恋愛の不可能性」に人が出くわす瞬間を、この連作は描いているのだと言える。こうした本書の主人公たちが見せる、独特の恋愛観と行動について、歌人の穂村弘は帯文で、こんなふうに綴っている。
「この美しさはなんだろう。/愛って言葉が生まれる前の世界みたいだ」。
ここに付け加えるべき言葉はない。もしあなたが「愛」という存在について、それが自明の既知の存在であると思っているなら、是非本書をお読みいただきたい。愛という言葉、概念が生まれるその瞬間は、本来は奇跡的なものなのである。安っぽいラブコメ的な意味ではなく、愛とは奇跡である。そのことを本書はありとあらゆる手練手管で書き綴った、いわば奇跡の書なのである。