以前、既婚の男友達に「妻が浮気したらどうする?」と冗談っぽくきいたところ、彼は「オレにわかんないようにやってくれればいい」と静かに、真面目に言った。佐川光晴の小説『おれのおばさん』を読み、そのときに感じた驚きを思い出した。
男には心の理想郷があるんだなと、私はそのとき思ったのだった。たとえ幻想だとしても、信じたいことを信じる自由。自分が選んだもの、目の前のものを信じ、守ることへのこだわり。男ってなんてロマンチックなんだろう。何事も現実的にとらえる女とは違うんだなと、まさに目から鱗が落ちたのだ。
佐川光晴の小説の第一印象は、私にとっては違和感以外の何ものでもない。かたいともやわらかいとも表現できない妙なものを食べている感覚。だが、その違和感の中に、私に不足している大切な栄養素が含まれているんじゃないかという微かな予感。
ただし世間的な評価は少し違うかもしれない。『おれのおばさん』は先月、「大人も子供も共有できる世界を描いたすぐれた作品」に与えられる坪田譲治文学賞を受賞した。
中学生の視点から、現代の家族の問題を描いた青春小説だ。それは明らかに悲劇だが決定的なものではなく、優等生の小さな悩みに過ぎないと片付けることもできる。そう、主人公の「おれ」は、何があっても家族の絆と勉強を大事にする<成熟した優等生>なのだ。こんな事件があったら、普通はもう少しグレたり、女に突っ走ったりするんじゃないかと思わないでもないが、たとえば「おれ」はこんなふうに考える。
「人と人はお互いの何もかもを知らなくてもつきあっていけるのだし、だからこそ、いつかすべてを知っても、それまでと変わりなくつきあいつづけられるのだ」
これ、すごくない? こんなことがわかっちゃったら人間関係の悩みなんてなくなるでしょう? 私は、しばらくこの言葉の意味を考えながら生きていこうと今さっき決めたばかりなほど未成熟だが、「おれ」は中学生にしてこの諦念に達しているのだ。もちろん<浮気を続けたあげく愛人に貢ぐための金を横領した罪で逮捕された父親>のことも、全面的に恨んだりしない。
「おれはさあ、親父を恨もうかどうしようか、ずいぶん考えたんだよね。(中略)それもこれも全部親父のせいだって開き直ってもいいわけじゃん。でも、そういうふうには恨めなかったんだよね」
理由は、父親がやさしい人だったからであり、そのやさしさが三千五百万円という巨額の横領によって成り立っていたというのなら、喜んで責任を分かち持ちたいとまで「おれ」は思う。少しくらい気持ちが揺れてもいいけど、ぎりぎりのところで妻子を選んでほしい、とにかく家族という形を保ってほしいと。
「おれ」がこんなふうに父親の話をする相手は、淡い恋心を抱く同世代の女の子だ。季節は夏。場所は北海道からはるばるやってきた奄美大島。二人きりの夜。完ぺきなシチュエーションだ。はじめは「全身でおれたちを拒否していた」彼女と少しずつ話をし、心を通わせていくシーンは素敵。自分にとって恥ずかしくも大切な家族の話を、自分が好きになった異性に初めて話すのって、愛の告白そのものだから。話しながら、家族のだめな部分を必死に弁明し、目の前の相手のことは一層好きになる。なんて美しく心ふるえる場面だろう。
おばさんのことを話すときには「話しながら、おれはあらためておばさんの決意がわかった気がして胸がつまった」とある。語ることで他人の気持ちに寄り添うことの意味。それは、小説を読むことの意味と同じだ。
表現とは、自分以外の何かが乗り移ること。そんな優れた表現に触れると、読者にもその感覚が乗り移る。
陰鬱な話も多いけれど、北海道から奄美への旅、淡い恋愛、そして、おばさんにまつわる顛末が、きれいにはまったジグソーパズルのようにさわやかだ。実際に旅に出たような気持ちになった。いつもの見慣れた壁を乗りこえる旅を。
最初に感じた違和感が、違和感でなくなる。