セックスは、しばしば滑稽である。そして残酷でもある。
どんな偉人だって、下半身むき出しのすっぽんぽんでは何を言っても無駄である。むき出しの下半身は、上半身の人格を否定するのだ。だから滑稽、なんとも残酷。
ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』には、そんな感じでセックスが飛び道具として使われた話がいくつもあって、ぎょっとさせられる。十六篇が収められた作品集で、中にはショートショートのような長さのものもある。「動き」はその一つだ。
死に瀕した父親から、「女の人をイカせるための指づかい」を教えられた人の話である。「父さんがお前に用意してやれる嫁入り道具はこれくらいしかないんだ」とその父親は言う。ん、嫁入り道具? そう、主人公は女性なのだ。「外国暮らしをしているときにマスターした」「指を動かす速度と力のこめ具合のさまざまな組み合わせ」を娘に伝授する父親の話を、生真面目にジュライは書いている。その動きの一つは、「指の動きを止め、一拍ためたあと、すっと素早くなであげる」もので「なぞり」と呼ばれるのだそうだ。前述したように「動き」はとても短い話だが、こんな具合でディテールは非常に際立っている。処々で突然饒舌になり、このことを言い尽くすまでは已むものか、と熱狂し始めるのはジュライの語りの特徴だ。言いたいことを言い切れないことにじれたかのように言葉が途切れ、ぶつっと物語が終わるのも。熱狂と断絶の文体だ。
セックスの話でもう一つ、哀しくも可笑しいのが「妹」という短篇である。これはブラインド・デートのお話だ。
友人から「妹を紹介するよ」と言われたとき、世の男性のほとんどが、うら若く、瑞々しい少女のような「妹」を想像するものらしい。このお話の主人公もそうだった。同世代の友人であるヴィクトルから妹のブランカに会わせてもらえると聞き、最初の邂逅こそ手違いで顔を合わせることはできなかったが、主人公を見た妹が次こそは、と言っていると聞かされ、妄想を抑えきれなくなってしまうのである。彼の脳裏にはブランカの姿が浮かんでくる。「ぴったりしたジーパンにスニーカーをはき、チューインガムを噛んで」「耳にはピアスをして、髪は何かバンドのようなものでまとめていた。リボンか、プラスチックの髪留めみたいなものだ。そして耳にはピアス」おっと大事なことだから二回言ったのか。なんだろう、このはっきりとした妄想。まだ彼女のことを見てもいないというのに。そしてもっと問題なのは、この主人公が七十歳目前の、結構な年齢だということだ。え、ヴィクトルは同世代なんだから、その妹だって当然ムニャムニャじゃんか!
こうした具合に淋しい男性がする妄想を(主人公はこの年まで女性とまともにつきあったことがない)描いたお話だ。つまり自慰的な欲望。言うまでもなく自慰というのはすべてのセックスの中でもっとも滑稽な代物である。読者はニヤニヤしながらこの「妹」の結末を予想し、主人公がたどるであろう悲惨な運命を待ち受けるだろう。だが恐ろしいことに、ジュライの想像力は読者のそれをはるかに上回るのである。最後の数ページは、これまであなたが読んだ、どんな恋愛小説よりも変な結末だと断言できる。
うら淋しく、哀しみに満ちた物語も本書には収録されている。「モン・プレジール」は、とうに子供を持つことを諦めた夫婦が、それでも一緒に「なにか」をしようとするという作品である。二人の間に当たり前の性交渉は耐えているが、何もないわけではない。「カール(夫)がおっぱいを吸って、わたしが彼のものを手でしごく。それからわたしが後ろを向いて、カールに頭のうしろを撫でられながら、自分でする」といういささかよそよそしいやり方で、二人は処理を行っているのだ。妻である主人公の提案で、二人は「なにか」に挑戦する。それは映画のエキストラに二人で参加し、「モン・プレジール」というフレンチレストランで、役者たちの背後でテーブルについている男女を演じることだった。
エキストラだから、邪魔にならないよう、演技は無言でなされなければならない。言葉を交わさずに行う恋人の演技に熱中するうちに、二人はいつの間にかセックスに没頭するかのような興奮を覚えていくのである。エキストラ体験という非日常の中で思いがけず得られた、久々の性の高揚だ。しかしそれは突然中断される。シーンの撮影が終わり、エキストラ役から解放されるからだ。高揚のときは二度と戻らず、夫婦はまた味気ない、セックスのない日常へと戻っていく。
セックスという側面でいえば、手で触れること、ペニスとヴァギナの感覚に頼らず、念入りな愛撫によって相手を快感に導くことが重視されているように思われる。ペニス主導のセックスが慌ただしく、どう好意的に見ても永続的とはいえないものだからだろう(文字通り、終わればそれはしぼんでしまう)。ミランダ・ジュライの世界では、ペニスをヴァギナに突っこんで完結するセックスには、必ず失意の気配が忍び寄っているのである。もちろん同性同士のセックスが無批判に称揚されているわけではなく、「何も必要としない何か」では、ルームメイトとの性的なつながりを狂おしいほどに求めながら、相手から冷たく拒絶されて奇矯な振る舞いに走る女性が主役を務める。求めて与えられず、完全な和合がなしとげられることは絶対にない。そうした不完全なコミュニケーションの手段として、ジュライはセックスを見ているようだ。世間では、セックスの魔力はとかく過大に評価されがちだが、その点では冷静極まりない。
セックスの要素が前面に出ていない短篇では、「水泳チーム」が印象に残る。プールのない砂漠で、一度も泳いだことがないという老人たちに水泳を教えた経験のある女性の話だ。プールがないのにどうやって? 洗面器に満たした水に顔をつけさせて、息継ぎの練習をさせるのである。同時に手足で架空の水をかいて動き回らせる(洗面器に顔をつっこんで手足の床の上を進んでいく老人の姿を想像するとおおいに笑える)。これは主人公の女性が、別れた恋人を相手に過去の体験を物語るという形で明かされるエピソードだ。彼女の目的は、かつて自分を心から必要としてくれたひとびとがいたということを、自分を裏切った男に告げるのが目的なのである。小説はこんな孤独の叫びで結ばれる。
わたしはきっと、人類史上最高に悲しい水泳コーチだ。
みな、手のつけようがないぐらい孤独で、淋しいのである。心の穴を埋めてくれる者はいないし、セックスだって一時の現実逃避にしかならない(自慰は言わずもがな)。お手軽な言葉で心のひびを埋めようとすれば、必ずぼろが出て、充填物は剥がれ落ちていく。原題のNo one belongs here more than you.を『いちばんここに似合う人』としたのは訳者のお手柄だが、「ここにはお前しかいない」と読むこともできる。蛸壺のように、一人しかいられない場所なのだ。恋人がいようがいまいが、結婚していようが未婚だろうが、ましてや暖かな家族がそばにいようが、われわれはみな等しくそうした場所に立っているのだと、十六の短篇は繰り返し読者に告げる。
この小説は2011年1月末に投票が行われ、2月5日に結果が発表された、第1回「Twitter文学賞 ツイートで選ぶ2010年ホントに面白かった小説」の海外編第1位に輝いた。はらわたがよじれるほどの滑稽さと、残酷な哀しみに満ちた短篇集を、多くの人が評価したのである。
作者のミランダ・ジュライは1974年生まれのパフォーマンス・アーティストで、映画監督としても活躍している。カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)受賞作である初の長篇映画「君とボクの虹色の世界」はDVDで鑑賞可能だ。本書、『いちばんここに似合う人』は2007年に出版され、、フランク・オコナー国際短篇賞を受賞した。収録作のうち「妹」は、岸本佐知子編のアンソロジー『変愛小説集2』(講談社)にも収められている。