翻訳小説は、訳に恵まれなかったら終わりだ。
元がどんな傑作でも、紙くずの束になってしまう。
今回の加賀山卓郎さんの訳文が酷い、と言う訳ではもちろんない。そもそも僕みたいな英語オンチが、翻訳にあれこれ言える訳もない。今回、文句をつけたいのは、この日本語タイトルのみ。加賀山さんなのか、編集者なのか、発案者は誰か知らないが、罪を憎んで人を憎まず。本も商品。売らなきゃ意味が無い。いろいろ事情もあったんでしょう。責任者出てこいとは言わない。でも、やっぱりこのタイトル、どうにかして欲しい。その一点、ピンポイントで喧嘩を売りたい。
原題は「The Constant Gardener」。
直訳すれば「誠実な庭職人」。主人公の内向的だが一本気な性格、そしてそれが故に起きる悲劇を暗示したいいタイトルだと思う。――ただ、読後感から遡った後出しジャンケンの感想なのは認めよう。確かに地味だ。
『ナイロビの蜂』というタイトルの本、本屋で見つけてどんな本だと思います?
舞台はケニア、首都ナイロビが舞台なのは一発で判りますわね。んで、物語の仇役にあたる製薬企業「スリービーズ」(三匹の蜂)から引いて「蜂」と来たか。「悪い奴が毒針を持ってて、主人公を脅かしますよ、さあ、お立会い」と。シャープな印象もあって、少し不穏な感じもある。確かに、この本が 粗筋から想像されるようなストレートなアクションスリラーであれば、悪いタイトルじゃないと思う。
ただ、実際の作品の肌触りは、全く違う。
むしろ人間の心理の迷路をじっくりと描き出したル・カレお得意の重厚な心理小説であり、このスタイルでは初めて試みた純愛的恋愛小説なのですよ(一点保留ポイントがあるのだが、それはあとで述べよう)。とりあえず、ワクワクドキドキを追うエンタメ小説では、絶対、ない。
主人公は、ナイロビに置かれた英国の高等弁務官事務所の職員。すでにキャリアの終りが近いおじいちゃんなのだ。長年の職務に疲れてもおり、ほとんど存在しないに等しい窓際職員。知的でもの静かな紳士である 彼は、その無聊を酒にも女にも求めず、もっぱら自らの私邸の英国庭園の手入れに費やしている。後半変身もしないし、空手もやってないし、銃も使えません。どこまで読んでも、悪い企業の“蜂”とバリバリ正面から向い合うアクション小説ではありえないのだ。
“蜂”を退治しようと血気盛んなのは、彼の若い嫁のほう。現職の弁護士であり、アフリカ の難民救護に熱意を燃やすバリバリの活動家。尽きることのない熱意と行動力、そして並外れた美貌を合わせ持つ彼女の行動は、年の離れた物静かな夫との対照もあって、常に周囲の注目の的――というか冷やかしの対象になってしまっている。
アフリカをベースに結核の画期的な新薬を販売している製薬 会社「スリービーズ」は、彼女の最大の標的。彼等の新薬開発に関わる不正を嗅ぎ当てた彼女は、狂信的な勢いで彼等の告発活動を繰り広げようとしていた、「らしい」。
と、歯切れ悪く言わざるを得ないのは、物語が彼女の死から始まるからだ。 そのすべての資料を携えたまま、彼女は砂漠のまん中に放置されたジープの中で全身を切り裂かれ、さらに強姦された 末に殺害されていた。これだけでも、結構なスキャンダルだが、さらに不倫疑惑までがそこに乗っかる。
彼女の最期の旅は、「スリービーズ」告発運動を共に進めていた美男医師と二人きりの道中であり、その医師は事件現場から姿を消している。当然世間の見立ては、“道ならぬ恋の末の精算”になるのが道理だ。医師は犯人と目され、指名手配される。彼は それ以前から妻との親密な行動を取っており、ナイロビの英国人社会でも話題 になっていたのだ。“状況証拠”は真っ黒だ。
蚊屋の外に置かれたマヌケで“誠実な庭師”だけが、その事実を知らなかったという構図ができあがる。
しかし、 “誠実な庭師” は、――どうやら――それを信じなかったらしい。「どうやら」と書いたのは、彼が妻の死に何を感じ、どう解釈したか、ル・カレが一切語らないからだ。妻の死に不審を抱き、彼女が死の直前まで追っていた製薬会社の不正追求を引き継ぐ。その行動だけが描かれる。だがそれは、およそ彼のキャラには不似合いだ。主人公は寡黙であり、心情は言葉として浮上してこない。行動から読み取ろうにも、常に二重三重にブロックがある。「弔い合戦としての真相究明」なのか「浮気の事実をほじくろうとしているコキュとしてのトレース」なのか。かなりの間、彼の動機は不明のまま、物語は進んでいく。
ハッキリ言って回りくどい話だ。
ただのスパイアクションとして読むとしたら、カタルシスからは程遠い。
だが、ここなのだ。
ル・カレが “誠実な庭師” を通して描きたいのは 、制度と伝統にがんじがらめにされた英国人の“わかりにくさ”なのだ。だから、このどうしようも無いツンツンぶりに付き合うしかない。
ル・ カレを読む苦痛と醍醐味は、このもどかしさ、不可解さにある。
元々スパイ小説は不信の物語だ。常に「不可解」で「悪意」に満ちた“隣人”の真意を疑い、相手が敵か味方か判定のつかない迷路の中の神経衰弱戦が続く。オセロゲームのようにめまぐるしい真偽の裏返し合戦が身上だ。この「型」に、ル・カレは、さらに“英国人”という複雑な心理を持つ人種の魂の問題を絡める。
この作品の書かれた1990年代の後半は、まさに英国全体がが保守的な伝統に寄りかかり、制度を食いつぶすばかりの経済破綻状態にあり、“英国病”と呼ばれた時代である。
生活様式も思考形式も保守的で変化に乏しく、「伝統」がロールプレイと化し、鎧のように重くのしかかって、自由に行動する余地が見えない。かといって、それ以外の生き方を選べば、即社会に居場所がなくなる。 自分自身を全く愛する事のできない“醜い”人々。そんな、伝統という名の戒めに明日を閉じられた自縛侍従状態の英国人たちの現代を、ル・カレは処女作から延々と描き続けて来た。
この物語の主人公も、愚かなのではない。むしろ聡明であるがゆえに、国際外交という華やかでご立派な自分の職業が、まったくの建て前でしかない事を知り抜いている。空疎ゆえに、昼行灯と化すしか、己のナイーブさを守る術がないのだ。
“昼行灯の役人”と言えば、我々日本人には思い浮かべるヒーローが居る。「必殺仕置き人」中村主水だ。日中は唯々諾々と役所仕事に妻・姑らの支配下にロボットを演じるが、ひとたび夜の“自由時間”が来れば、その仮面を脱ぎ捨て、楽しげに悪人を斬る“課外活動”に勤しむことができる。その表裏の使い分けには、社会やモラルの支配は及ばない。時と場合に応じて、本音と建前を易々とすり替える中村主水のしたたかさは、まさに器用自慢の我々日本人そのものだ。
翻って、「英国式の昼行灯」は、そんなイージーな仮面ではない。肉に喰い込み、骨絡みの生態として、彼の行動と魂を蝕み、支配する。だが、英国人にはそれが必要なのだ。憎むべき伝統と因習は、同時に、英国という島国の外に待ち受ける世界の無秩序から彼らを隔てる強固な拠り所であり、防壁でもある。彼が秩序と様式美に支配された「英国式の庭」に固執するのは、その平穏が彼を閉じ込める檻であると共に、外界の無秩序から守る壁を兼ねる、両義の存在だからだ。「英国庭園」とはそのまま昔日の世界政治のリーダー=没落した大英帝国のメタファーでもある。
さらに、 ル・カレの仕掛けは緻密だ。無気力に陥った落ち目の夫(大英帝国)に代わって、勝ち気で理想主義な妻 を、本来夫達が行うべき「正義」を実現しようと奔走する“左翼系活動家”に設定する。彼女は、夫の「鎧」の最奥部に眠る“理性”の代弁者として配置されるが、物語の最初に“惨殺”されてしまっているのである。
エリートであり国家職員である外交官は、英国資本も受ける多国籍企業の無謀な行動に監視の目を光らせ、時にその行き過ぎた経済活動を押しとどめるべき立場にある。だが、制度疲労に陥り、既成の利権にしがみつく「旧大英帝国」の僕(しもべ)達は、むしろそうした蛮行に目をつぶり、あわよくばそのおこぼれにありつこうとさえする。
そんな俗物達の巣窟の中にあって、「思考停止状態」に陥った自分を、“理性”=正義感溢れる妻はどう見ていたのだろう? 彼女の絶望を汲み取ってやれなかった自分の代りに、美貌の理想家に心を、そして体をゆだねたのだろうか? 主人公の苦悩はそのまま、凋落した大英帝国自体の苦悩であり、制度疲労 に陥った故国の旧弊さを嘆くル・カレ自身の苛立ちの声でもある。かくもカレの作品の底流には、メタファーがオーケストラのように奏でられている。だからこそ、全てのメロディの基調に流れる、「The Constant Gardener」というタイトルの奥深さも際立つのである。
妻の死によって、彼女に託していた“理性”は、彼に返還されることになる。
主人公は、製薬会社を庇おうとす る上司達の思惑を振り切り、単独彼女の探索の軌跡を追って行くことになる。その前に立ちふさがる巨大企業の妨害、そして同僚の隠された裏切りを乗り 越えながら、彼は妻の心理を、そして秘められた愛情の経過を知ることになる……。
そこらでバカ売れしているという安っぽい凡百の「純愛小説」なんかより、何千倍もピュアでじっくり練り上げられた愛の物語だと思う。若干、謎の取扱いが安易だったり、コンピューターウィルスが御都合主義的な働きをしたりと、気になる部分はないではない。だが、刊行年に既にル・カレ先生は古希(70歳)。そんなものは瑕瑾にすぎな いと言っておこう。
デビュー以来書き連ねた十数冊のスパイ小説を通して、ル・カレはひたすら信念と欺瞞の間で揺さぶられる人間(スパイ)達 の、魂の最暗部を描いて来た。信頼と正義は、嘘を覆い隠すパッケージでしか無く、長年シリーズの主人公を務めたスマイリーは、最愛の妻が繰り返す不倫に、ただ黙って耐える悲しい老人でもあった。
作家生活35年目にして、この巨匠が、かくも純粋で一途な(そして多分に不器用な)愛の物語を描いてみせた事に、この作品の最大の意義があると思う。
それも、これまでの暗く重いペシミズム――国家や組織への忠誠も、哲学も、制度も、金すらも、人の魂の卑しさをを救う事はできない――そんな、従来の彼のスタンスを 一切崩す事無く、その延長線上に、この境地を描いたのだから、凄いとしかいいようがない。
この物語のラストは、読み方によってはまったく救いの感じられ ない惨劇で幕を閉じる。にもかかわらず、どんなハッピーエンドより静謐で趣き深いフィニッシュだった。
上下二巻、その上濃密で、うっかりしたらすぐ意味を見失うようなクネ曲がった文体、そして重たく沈鬱な空気感は、ル・カレを読み慣れない読者には拷問としかいいようのない、長い長い旅路になるだろう。
それでも、このラストシーンには、どうしてもたどり着いて欲しい。まさに交響楽の最終楽章、この一節を奏でるために、全てのメロディが緻密に積み重ねられて来たのだから。
ただね。その歓喜を味わうためには、やっぱりここに列記したメタファーの一個一個を自分でほじくり出し、意味を噛み締め、じっくりル・カレの思考を辿ったほうがいいと思うのだ。その入り組んだ「暗号」の数々を読み解くためのキーワードが、「The Constant Gardener」なのだよ。これをタイトルにしなきゃ、この作品、何の深みも汲み取れない、ただのもったいつけた“ダル”いアクション小説で終わってしまう。
だーかーらー(深呼吸)
「このタイトルがどうしても許せないっ!」 のだ。
※ちなみに冒頭に書いた「保留条件」。実はル・カレ先生にストレートな恋愛小説――それも当人が公式に認める失敗作(「Naive and Sentimental Lover (1971) 」)があるのだ。あまりに失敗作であるとの評判に、長年ル・カレ先生の座付き訳者を務めた村上博基さんすらも未読で、邦訳もないといういわくつきの作品。以後スパイ小説一本に絞って活動してきた先生が、晩年、変化球ながら再び同じテーマに再挑戦したのは、やっぱ相当悔しかったと見るべきでしょうな(笑)。
(2004-05-21blog「monologue/montage」に掲載したものを改稿しました)