僕はいま、これを書きながら錯乱している。赤土のような怒りが胃の中にずっしりと詰まっていて、気分が悪くなってきた。それでもぼくはこれを書かねばならないと信ずる。わけてもこれを読んでくれるはずの、僕とおなじ年代の少年少女にむけて。そして願わくば先輩たちが、僕のロジックの背中を押してくれることを願って。
あらすじ
少年ジェロームは従姉のアリサに恋をする。二人は厳格なプロテスタントの教育を受けていて、愛は主の承認によって成立する神秘的なものだと盲信している。学業でジェロームがアリサのもとを離れ、二人は手紙のやりとりを始める。二人は相手を愛しているということだけを手紙に書き、自分自身を反省してみるということがない。アリサは手紙を信仰によって修飾し、それを受け取ったジェロームは「ただアリサのためだけに、より多くの徳行を積もう」と考える。数年が過ぎて再会するとき、ジェロームは、自分が現在のアリサを愛せなくなっていることに気づく。「自分はもう、《影》だけしか愛していなかったのだ。わたしのかつて愛していたアリサ、そしてなお愛し続けていたアリサは、もういなくなってしまったのだ。」二人は意気消沈して別れ、それからさらに三年ののち、ジェロームの婚約の申し込みもむなしく、アリサは自分の命を絶ってしまう。
福永武彦は『愛の試み』のなかで、「自己の孤独を無視して相手のことばかり考えている人間は、結局は相手の孤独をも無視しているわけである。そしてこのような所有欲は、エゴイズムの間違った現れであり、果たしてそれを愛と呼ぶことが出来るかどうかもわからない」と述べている。ふたりの愛が成就しなかった原因は正しくこれであろうと僕は考える。僕はジェロームとアリサのふたりともが、猛烈なエゴイストであると感じるのだ。
たとえばジェローム。
「わたしがついに意を決して彼女に送ったこの手紙、涙に洗われたこの手紙の写しを取りだしてみるとき、わたしは、今なお涙なしには読み返すことができない。」
自分の愛に満ちた手紙で泣くということは、自分の愛に感動して泣いているのであって、相手の愛によってではない。これは明らかに間違ったエゴイズムだ。手紙の内容は問題ではない。自分がすぐれた愛の持ち主であると盲信している様が、僕の悪心をひどくする。
そしてアリサ。
「きのうあなたがそばにいてくだすった思い出は、きょうのこの手紙を味気なくさせています。手紙を書くとき、いつも感じるあのうっとりとした気持、それが今ではどこへ行ったというのでしょう。〔…〕そして今、われにもあらず、あの『十二夜』に出てくるオーシノーのように、《もうたくさんだ、よしてくれ。もうさっきほどに懐かしくないのだ》と叫ばなければならないんですの。」
この言い分は、まず自分が本位であることを示している。自分が「うっとりした気持」になることが、彼女にとって最も大切なことなのだ。真実愛しているのなら、どうしてまず自分を優先させるのだろう。一冊の本を何度も読み返すように、相手を求め、理解し続けようとする試みが愛であると僕は考えるが、彼女は「もうさっきほどに懐かしくないのだ」などと不満を垂れる。そもそも人間が、一冊の終わらない書物であるということを理解していないのだ。
フランスの作家、ラディゲは『肉体の悪魔』のなかで、主人公の語りを借りて、「愛がエゴイズムのもっとも激しいかたちというのは本当のことなのだろう」と述べた。僕もこの意見には同意だし、作中の主人公も、自分のエゴイズムが間違ったものだったと理解して語っていた。しかし、ジェロームとアリサは、自分の愛がエゴイズムであるということに、そもそも気づけていなかったのだ。神を信じるふたりは、自己の望みや悩みをまず神に申告し、そのまますべての判断と結果を、神のご意志である、と収斂してしまっていた。ふたりは一度たりとも反省しなかった。ふたりの孤独は、神によって覆い隠されてしまったのだ。
「人が生きる本質的な基盤として孤独があり、愛とは運命によってその孤独が試みられることに対する人間の反抗に他ならない。」と福永は述べた。そう、ジェロームは自分の孤独を省みることを恐れず、アリサを叱咤すべきだったのだ。そして神の愛ではなく、自分の愛に引きずり込むべきだった。それが正しい行為かどうかは些事だ。相手を強引に引きずり込み、そしてその責任を負う覚悟が足りなかった。自分と神を乗せた天秤を粉々に破壊しなければならなかった。その結果として心が離れるようなことがあっても、アリサが喪われるよりはよほどましではないか。そもそも神は偏在している、と彼等は信じているはずなのに、なぜお互いのなかにも神がいるのだと、導き出せなかったのだろう。
そう考えたとき、アリサを喪ってもなお余生を弄び続けるジェロームに、僕は激しい憤怒を覚える。なにが、「ほかの女性と結婚したって、つまりは愛しているようなふりしかできないだろうから」だ。操を立てているふりをして、じつは自分の愛が理想型にならないであろうことが気にくわないだけだ。そこまで君の愛とやらが強いのなら、神とアリサのおわします天上にでも行ってしまえばいいだろうに。
最後にもういちどだけ、『愛の試み』を引用しよう。
「死を前提とした愛は、なるほど見た目には美しいかもしれないが、現実としては少しも美しくはない。それは文学として美しいだけで、もし文学的な美しさを実演するために死を求めるか、それとも生きて調和に程遠い愛で我慢するかとなったなら、人はもちろん生きるほうを選ぶだろう。」
現実に生きる僕らは、誰かを愛するとき、自分のしたためた恋文が美しいという理由で泣いてはいけない。文学的な美しさを実演するために、死を求めてはいけない。それは相手を愛しているのではなく、自分を愛しているだけだ。確かにジェロームとアリサの愛は美しかった。しかしそれを、現実で再現してはいけない。現実に文学的なことが起こらないようにするための標識として、文学はあるのだから。
筆者贅言
この拙文を読んでくれた貴方に伝えておきたいことがあります。もし僕とこの本について話す機会があれば、とくに気をつけてほしいことがあるのです。僕は貴方と『狭き門』の話を喜んでするしょう。しかしジェロームとアリサのことになると、きっと分別をなくすでしょう、そしてしまいには目を剥いて怒りだすでしょう。なぜなら、僕は彼らにたいして、激しく怒っているからです。そして虚構の人物をこれだけ「情けなく」書き上げたジッドの筆致に感動してもいるからです。ですから、僕とこの本について話をするときには、できれば僕の怒りを理解しておいていただきたく存じます。これは快い怒りです。泣いてしまいそうなほどに文学的な怒りなのです。
お付き合いいただき、ありがとうございました。