創作において舞台設定が重要なのは云うまでもないが、どこにでもいる人たちの何でもない日常を描く市井小説において、“町”は単なる場所以上の意味を持つ。自然や風景の描写は、その小説の雰囲気を強調するのに役立つし、歴史的背景や風習が、登場人物の現在に影響を与えている場合もある。方言もノスタルジーを誘うのに有効だろう。しかし、そうした効果以外の部分にも目を向けたい。
佐藤泰志の連作短編集『海炭市叙景』は、函館を思わせる架空の地方都市・海炭市が舞台だ。人々の暮らしぶりや、そこから湧き上がる感情の揺れを丁寧に書き込む筆致も魅力的だが、特に圧倒的存在感を持って迫るのが、海炭市の在り方。そう、この小説においての事実上の主役は海炭市という町そのものなのだ。
本書は同市の冬から秋までの1年を描く構想であったが、残念ながら著者の自死により未完となっている。1991年に刊行された単行本は、長らく絶版であったが、函館市民有志による映画化を期に、文庫として復刊された。
第1部は主要産業であった炭鉱、造船所、国鉄が斜陽となり、経済状態が悪化した“冬”の季節をめぐる9編。将来性が見えない町で、それでも地道に働くことでしか生き抜けない閉塞感、心の中に抱えた不安や、時に噴出す怒りなどが空気を満たす中で、「週末」という一編はその先にある“春”を予感させる。
34年間、路面電車の運転手として町を見つめ続けてきた達一郎は、初孫の誕生を心待ちにしている。娘から元スラム地域出身の男性と結婚したいと相談された彼は、熟考の末、反対する妻を押し切って、2人の結婚に賛成した。その時の心境を説明した箇所がこうだ。
何故賛成したか薄々だが彼にはわかるのだ。(中略)もし彼が幾らかでも進歩的な人間であれば、彼に一片でも中産階級だという意識があれば今日のこの日はなかっただろう。(中略)彼はこの町のどんな革新政党よりも先を歩んでいる。彼は三十四年間電車に乗り続け、十年ごとに表彰され、実は、この海炭市の新しい歴史をつくっているひとりなのだ。
停滞しているかに見える毎日こそが、時代を明日に追いやる原動力になるのだという著者の姿勢が表れている。
続く第2部は“春”にあたり、合併により近代化が進んだ海炭市を見ることが出来る。整備された産業道路には街路樹が植えられ、畑の後には小ざっぱりとしたアパートや幼稚園が建てられた。そんな町に呼応するように人々の生活も変化していくのだが、その背景には、変化ゆえの迷いや疑問、心もとなさなどが、うっすらと広がっている。
その後の“夏”と“秋”はついに書かれることなく終わってしまったが、日常を営んでいくことの確かな手ごたえ、未来への怖れや希望、そしてそれすら飲み込んで変わっていく海炭市の姿を想像するのは難しくない。
海に囲まれた架空の地方都市で繰り広げられる日常、という共通点がありながら、エリザベス・ストラウトの『オリーヴ・キタリッジの生活』は、町が1人の人物を浮かび上がらせる仕掛けになっている。
本書もやはり連作短編集であり、クロズビーという町に住む人々が語り手だ。特徴的なのが、複数の語り手によって進められる各編の全てに同じ人物が登場し、小説全体の核となっている点だ。名前はオリーヴ・キタリッジ。偏屈で愛想なしの中年女性である。夫のヘンリーからは<おまえから謝ったということは一度もないな>と指摘され、息子からは<まわりの者がいやになるよ。へとへとに疲れるんだ>とため息をつかれ、隣人からは<人を人とも思わない>印象を持たれていた彼女だが、読み進めるうちに違った横顔を見せるようになる。
摂食障害でガリガリに痩せてしまった若い女を見て<会ったばかりの他人だけどさ、あんたみたいなお嬢さんを見てると、つらくて泣けてきちゃうのよ>とつぶやくオリーヴ(「飢える」)。夫が買ってきてくれた花束を見て<あっちに入れといてよ>と邪険にするも、体に回された腕をほどこうとしないオリーヴ(「チューリップ」)。
クロズビーという町で生まれたいくつものエピソードが交差し、やがてオリーヴ像が結ばれる。そして彼女を知れば知るほど、その来し方行く末に思いを馳せてしまうのだ。
また、本書の登場人物には中高年が多いのだが、ほとんど全員が、家族にまつわる悲しい過去を引きずっている。双極性障害の遺伝子を母親から受け継いでしまったのではないかと気に病む青年、70歳を過ぎてから夫の不貞を知らされ、ショックを受けながらもやり過ごすことを選んだ妻などが多数出てくる。
オリーヴ自身も父親の自殺という過去を持ち、また現在も息子との不仲に心を痛めている。自分の頑なさや一方的な物言いによって息子の心が冷えていくのを感じながらも、家族という形にあぐらをかいて、何もしようとはしなかった結果、2人の距離は広がるばかり。小さなもつれを放置し続け、いつしかほどけにくいダンゴになってしまったものを手に途方にくれている。
過去が連れてきた喪失と孤独というテーマを扱いながらも、印象はじんわり温かい。それは、<家へ帰ると、上がりきった太陽が高度を下げようとしていた。この時刻は苦手だ。暗くなってしまったほうが、まだましだ。>と毒づきながらも、日の名残りにそっと触れようとするオリーヴの姿に、希望のようなものを見出すからだ。
誰かの暮らしが主役となる町を立ち上がらせる『海炭市叙景』、町で展開されるエピソードが1人の女性に収束されていく『オリーヴ・キタリッジの生活』。両者における町は、その扱われ方も印象も違う。しかし2つの町は、光を当てられていない都市の側面や、人間の胸に去来する細やかな感情など、確かにそこにあるのに、見えにくくなりがちなものの輪郭を鮮明に修正してくれる。実際のそれよりも確かな存在感を持つほどに。
市井小説で描かれる町は、一見すぐそこにあるように感じられて、実はどこにもない。例え実在する町がモデルであっても、だ。だから、読み手がいくら小説世界に特別な親しさを感じたとしても、決してそこの住人になったかのような幸せな錯覚は与えられない。代わりに自分の心の中にその“町”を根付かせることが許されている。優れた市井小説を読むということは、自分の中に色あせることのない“町”を増やしていくことなのだ。この2作を読んだ後、何とも言えない余韻を感じたとしたら、それは“ここではないどこか”が、はっきりと心に定着した証拠なのである。