作品中、ある新進女性作家の本を手にした主人公は心の中でこうつぶやく。
「短編集で、長編小説ではない。このこと自体がっかりだ。なんだか本の格が落ちるような気がする」
『小説のように』も短編集だ。しかしがっかりすることはない。本の格がどう決まるのか、それはこの主人公も明らかにしていないが、もちろんこの言葉がこの作品に当てはまることはない。
40ページ弱の短編作品10編の中で、10人プラス周りの人々の人生が語られる。長くはない作品の中で、幼かった少年が大人へと成長し、若かった妻はやがて夫に先立たれ “お年寄りの一人暮らし”を心配される老女になる。男の子がこの世に生を受け、成長し、仕事に就き、そして引退する。
長編ほどのページが費やされないからといって、彼らの人生が平和で心穏やかな生活の積み重ねであるというわけではない。幼かった少年は大学生になり、家族の前から姿を消してしまう。老女の家には殺人犯が押し込み、男の子は近所に住んでいた女の子と仲たがいをし、そのまま別れ別れになってしまう。
それら人生の起伏がてきぱきと語られる。極めて淡々と。しかしその濃密さは息苦しくなるほどだ。読者の喉を押さえつけるもの、それは彼らが経験する、ある決定的な瞬間だ。
作品の一つ、「ウェンロック・エッジ」を見てみよう。主人公の女子大学生「わたし」は、ルームメイトであるニナのパトロンである老人、ミスター・パーヴィスから食事に招かれる。ニナとミスター・パーヴィスとのこれまでのいきさつを聞いていた「わたし」は、彼に対する好奇心をかきたてられる。ニナに魅かれる気持ちも手伝い、「わたし」はためらいつつもミスター・パーヴィス氏の招待を受け入れる。
屋敷を訪れた「わたし」に、ミスター・パーヴィスはある行為を要求する。「わたし」は戸惑いながらも、それを受け入れ、その後は普通に食事が進められる。ミスター・パーヴィスとコーニッシュ鶏を食べ、食後は図書室に移動して彼のリクエストに応じて本を朗読する。性的な行為を強要されることもない。「わたし」の体がミスター・パーヴィスの要求で何か肉体的な損傷を負うわけでも、穢されるわけでもない。しかし「わたし」はこう思う。「結局のところ、彼はわたしに何かをしたのだ」と。
何か目に見えるものが大きく損なわれるわけではない。老人の要求は、実害になるようなことは何も引き起こさない。しかし求められたその行為を経たことで、自分の中で何かが決定的に変わったことに「わたし」はあとから気がつく。「自分がどんなことを承知してしまったか、いつも思い出すことになるのだ。強制されたわけではない、命令されたわけでも、説得されたわけですらない。やると同意したのだ」。
自発的な行為でありつつ、どこか受動的である。そういう行動をとる瞬間はたぶん誰にでもある。本当は選択することができるのに、選択肢などないかのように思える瞬間。他にどうしようもない、でも後から考えると、他にどうすることでもできたのではないかと思える瞬間だ。
その瞬間が主人公たちの心や人生を決定的に損ねる。それは決して主人公から生きる希望を奪ったり、彼らを死に追いやったりはしない。その瞬間の前と後で主人公たちの中にある何かが変わるだけだ。プライドに傷がつくのかもしれない。無垢なる部分が失われたのかもしれない。若さが奪われるのかもしれない。見た目はかわらず、人には気づかれないかもしれない。主人公たちもそのときには、その瞬間の訪れに気がつかないかもしれない。しかしそれは決定的だ。その瞬間の前に戻ることは絶対にできない。その瞬間がその後の「わたし」の人生に何らかの陰を落とし、そして痕跡を残す。
10編の作品に登場する主人公たちの人生の、どこかでその瞬間が訪れる。死や事故という大きな形で不意にやってくることもあれば、一篇の詩や過去を思い出させる人物との再会が契機となって引き起こされることもある。そしてあとから彼らはこう考える。もし、その瞬間が起きなかったらどうなっただろう、その瞬間を後から回復することができたらどうなるだろうか、と。
「顔」は、顔にあざを持って生まれてきた男が人生を振り返る作品だ。彼はある誤解が原因で仲たがいした、幼馴染の女の子ナンシーと再会したらどうなるだろうかと想像する。
「もしナンシーを見つけていたとしても―例えばトロントの地下鉄で―どちらもがすぐに見分けのつくしるしを負った私たちは、十中八九、よくあるどぎまぎした意味のない会話を交わすだけか、自分に関するどうでもいいような事実をそそくさと列挙するくらいがせいぜいだったろう」と。
過去に「もし」は無意味だ。しかし彼はその「もし」を想像する。そこには微かな明るさが感じられる。成し遂げられなかったこと、実現しなかったことを心の中で独り慈しむ行為の持つ、甘美さがある。
起こる可能性があっても現実には起きなかったこと、それについて想いを馳せることはどこか魅力的だ。その甘美さは人に希望を与え、彼らを動かす。その希望が儚く、明るさが偽物であったとしても、決定的な瞬間が自分に訪れていたことに気づき立ちすくむ者に、次の一歩をどうにか踏み出す力をもたらしてくれるのだ。
年老いた男も、私たちもその儚さを知っている。「そうなったら事情は違っていただろうか?」と男は問い自答する。「答えは、もちろん。そして当分のあいだは。だが、絶対にそんなことはない」
絶対にそんなことはない。そんなことが起きなかったことを私たちは知っている。それでもなお、起こり得なかった出来事について考え、それが起きる可能性を楽しむ。この短編集はその甘美さを想起させる優しい作品だ。そしてそれが一時の悦楽に過ぎず、力をもたらすものでありながら人を蝕むものであることを思い出させる残酷さも持っている。