戯曲というとシェイクスピアやチェーホフ、モリエールといった「ちょっと昔」の戯曲家たちが描いたあまりにも有名な作品群を想像する方も多いかも知れない。
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
といった言葉を思い浮かべる方も多いと思う。
正直言うと、たまにでも戯曲を読む、という人間は本当に少ないと思う。なぜだろう。
そもそも戯曲というものは本屋では芸術→演劇の棚の片隅に置かれるもの。人々はその近くの映画のコーナーには行くことはあるだろうが戯曲のコーナーに行くことはほぼないのではないか。(あらかじめ言っておきますがこれはわたしの経験上の話です)戯曲のコーナーの、しかも現代作家の棚の前にいて真剣に棚を眺めている人はたいてい演劇をしている人間である。
つまり何が言いたいかというと、戯曲を読む、という人間は非常に限られてくるということ。そもそも演劇をしている人だって、劇場に足を運んだり、自分が関わる作品の台本は読むだろうけど、小説やエッセイを読むように戯曲を読んでいる人というのは限りなく少ないのではないだろうか。たまに公演中、劇場ロビーで台本が売られていることはあるが、購入層はやはりファン(強烈に作品を気に入った人)に限られるだろう。
戯曲というのはそんな閉じられた世界でひっそりと、おとなしく、誰かに手に取られるのを待っているような、はかない存在なのである。
ただ、手にとってその世界に入るまでは。
簡単に一般的な戯曲本の構成の説明をしようと思う。
はじめに登場人物が羅列される。上演にあたり、俳優に割り振られた人物たちである。基本この人物以上の人間は登場しない。それからト書きと言われる「場面設定や状況、行動や心理を簡単に説明する文章」が入る。基本的に上演にあたって書かれたものが多いので、音楽や照明、映像の入るタイミングもト書きに書かれている。そして当たり前だが戯曲の主役は、人物たちの台詞、つまり人から発せられる言葉である。
構成としてはこれだけで、読者は小説と同じく人物の立ち居振る舞いを想像するだけである。
なお、本作「愛の渦」には、巻末に舞台図面が掲載されていて、ロケーションが詳しくイメージできるようになっているのでありがたい。
さて。いきなりあとがきの引用から。
ありきたりな言い方ですが、ここに出て来る登場人物は皆、僕の分身です。
僕は、自分のスケベさを全部曝け出すつもりでこの戯曲を書きました。
もう、露出狂か、ってくらい曝け出しました。
でも、皆さんも、そうじゃないっすか。
スケベなことはしたいじゃないっすか。
結局、チ○○とマ○○じゃないっすか。
(註:○○部分、評者自粛)
三浦大輔という人物は自らのこの戯曲『愛の渦』に対してこのような言葉を寄せている。
では、本編の方に入りたいと思う。
舞台はマンションの一室。そこに集ったお互い見知らぬ若者たちによる群像劇なのだ。
「乱交」をするために集まった若者たちの、一夜の狂騒を真摯に、滑稽に描いている。
登場人物は決して名を呼ばれることはなく、役名も「男1」「女3」と言ったように割り振られる。読み進めていく上でややこしくなってしまいそうなものだが巻頭にある人物たちの職業と台詞から滲み出てくる性格で巧みに描き分けられ、混乱することも少ないだろう。
物語は集合から解散までが描かれているのだが、その中で若者たちがト書きと台詞で創り出している「空気」が巧みに場面の緊張感を操っている。
男3、テーブルの方に行き、女3のことを気にしない素振りでジュースを紙コップに注ぐ。
女3も、素知らぬ顔で、携帯をいじっている。
男3、ジュースを注ぎ終わると、また、女3と離れたところに戻り、座る。
男3、落ち着きがない。
部屋の中を見渡したり、時々、大げさなため息。
女3はまだ携帯をいじっている。
男3、さりげなく、女3を見る。
しばらくして、女3、男3をさりげなく見る。
女1と店員2、他愛もない話。
若者たちが徐々に集まってくる場面でのやりとりである。それぞれが意識しつつ、無視し合うという場面をじっくりと描いている。
そして徐々に本題へと突入していく。本題とはこの場合、「性交」である。
集まった四人ずつの男女計八人が、自由に性交をするという目的のために徐々に近づき始める。まるで警戒している野良猫が、差し出したエサに反応してちょっとずつ距離を詰め、最後にはガツガツ食べ始める、という様を思い浮かべてしまう。
まず一組の男女(男1と女4)がロフト部分にある「プレイルーム」(行為のための場所)におそるおそる向かう。残った六人はまだぎこちない。沈黙の中、「プレイルーム」から女の喘ぎ声が聞こえ始め、残された六人の空気がさらに気まずくなっていく。高まる喘ぎ声の中、ついに女2が男2をプレイルームに誘う。男2は同意しつつも他の人が気になって動けない。女2はそんな男2を徐々に、大胆にプレイルームへと誘い出す。
「性交」という「エサ」がうまいということを知っている猫同士の牽制と、理性のタガが外れ始める様を途切れなく描く。
それから時間は進み、登場人物全員がその場での行為に抵抗がなくなったあと、欲望が惜しげもなく、悪びれもなく表出している。場面は女3が一人シャワールームに入っている時のやりとりである。
男4は、セックスのやり方を女1にいろいろ聞いていて……
男4「あの、今度は別の人とやって下さい」
女1「ああ……」
男4「僕も違う人とやってみたいんで」
女1「(ぶっきらぼうに)あ、はい」
男1「え、じゃあ、次は……(自分とバスルームを指して)こうで……(男2に)どうします?」
男2「ああ……どうしよう……」
女4「(咄嗟に男3に)次、お願いできますか?」
男3「え」
女2「ちょっと待って。そこ、やんの」
女4「(男3に)いいですか?」
男3「ああ……はい」
女2「(男2に)え、え、どうすんの?」
男2「ああ……。(見渡して)こう(自分と女4を指して)はダメなんですよね」
女4「あ、(自分と男3を指して)ここやるんで」
男4「だから……あれっすよね……(男2と女1を指して)こうと(自分と女2を指して)こうで すよね」
男2「で、でも、あれですよね。また、(自分と女2を指して)こうでもいいんですよね」
人物たちはパズルのように組み合わせを考えて性交の相手を探すようになる。動物的な思考が理性を停止させて本能だけのコミュニケーションを要求する。つまり、エッチがしたいパワーが謙遜だとか思いやりだとかを完全に駆逐する、やっつける。「だってみんなここにセックスをしにやってきたんでしょ」という前提が空間を支配する。そしてその意識は八人に妙な仲間意識を植え付ける。そしてお互いにとっかえひっかえ、行為に及ぶのだ。
また終盤には完全にコミュニティのようにできあがった八人のサークルに異物として一組のカップルが投入され、その行為の異様さが客観的に暴かれていく。
朝になり、人々は一夜の狂騒を終え、また他人として、社会に戻っていく。裸で求め合った人々は衣服をまとい一人また一人と去っていく。その別れ際はあまりにもあっけない。たとえばそこに生じそうな(たとえば恋愛などの)感情をことごとく排除、無視していく。そうしてあらゆる余韻を排除された閉幕間際、「物語性」というモノに対する示唆に富んだ会話が交わされ、幕を閉じる。
続いてあとがきが始まり、冒頭に引用した言葉が来る。
まるで清潔を装って性には全く興味がないといっている人々にカウンターパンチを喰らわせるかのような強烈な作品である。そしてゴングを鳴らした「権威ある審判」はこの作品に勝利の宣告を与える。
三浦はこの作品で演劇界の芥川賞といわれる「第50回岸田國士戯曲賞」を受賞。
この戯曲には欲望しか入っていない。だけど、欲望に接続するためのアプローチが秀逸なのである。台詞の数々が、多くの人が想像する「堅苦しい小難しいもの」ではなく、極めて日常に即した「平易で身体的」なものであり、若者たちの羞恥心やプライドの微妙で繊細な心理変化が台詞やト書きから溢れ出す。言うなれば「上品な下品さ」の圧倒的な説得力が欲望にぴたりと接続されていて隙がない。
世の中の大半の人間はいま、演劇でどのような演目が上演されているのか知らない。劇団名だって知らない。知ってて「大人計画」「劇団☆新感線」とか。テレビに出演する俳優が多く所属していて、観客動員が数万人という規模のところであろう。ただ、日本には、「小劇場」というシーンが存在して、無数の「小劇団」がしのぎを削り毎週のように百人規模の小さな劇場で上演を繰り返している。「大人計画」だって「劇団☆新感線」だって、もともとはその中の一つだった。
今回取り上げた「ポツドール」もそんな劇団の一つであり、三浦大輔も小劇場界でこそその過激でエロティックでスキャンダラスな作風で注目されていたが、あくまでアンダーグラウンドな存在として広まっていた。この作品を上演するまでは。
今では映画の監督や、商業演劇の演出を担当したりと才能を発揮させているが、本作のような作品を量産している劇団公演こそ彼の本領であると思う。
戯曲は難しいものではない。特に現代の小劇場の戯曲は作家ごとに個性が顕著に顕れていておもしろく読めるのではないかと思う。特に本作「愛の渦」はこれを実際に上演したのか……と思うほどハラハラドキドキしながら読み進められる。読めない漢字など一切出てこないにもかかわらずである。また、それに親しんでから関連の公演に実際に足を運んでみるというのも、なかなか一人メディアミックスのようで味わい深い。
立ち読みからでも、ぜひ。