女子会ブームである。女性だけで集い、おいしいものを食べながら語る。女子といっても、年齢は問わない。この場合、すべての女性が女子と見なされる。
しかしこのブーム、当の女子たちは「いまさら何を言っているんだ」と思うのではないだろうか。女子会なんて言葉がはやる前から、女性たちはいつもやっていた。女の子だけで集まって恋のこと、仕事のこと、職場の人間関係について思う存分話し合う。それを、意識的に「女子会」と呼ぶようになっただけなのだ。
この作品に登場する五人の女性たちも、女子会を極めて意識的に開催している。会には名前だってついている。「これでよろしくて? 同好会」だ。日常生活の中から見つけた些細な疑問や納得いかないことを、その日の議題として取り上げる。メンバーは、60代の女性を筆頭に下は20代まで。彼女たちは洋食屋で定期的に会合を持ち、メンチカツやらオムライスやらを食べながら、語りあう。議題は彼女たち自身の疑問でもいいし、どこかから見つけてきた他の人の悩みでもいい。「機嫌のよすぎる男の是非について」「夫の実家に夫と二人で帰省したとき、お風呂の順番はどうしたらよいのか」といった女性らしい問題から、「出張先で上司と温泉に入ったとき、上司が局所を隠さずに駆け寄ってくるときにはどう対処するのが無難か」という30代の男性の悩みまで、議題は様々だ。
彼女たちが扱う問題に共通点があるとすれば、それは些細であることだ。彼女たちが的確な答えを見つけたからといって誰かの人生が突如変わるわけではないし、答えが見つからなかったからといって世界が終わりを告げるわけでもない。納得いかないことに対する自分の思いを話す。漠然とした誰かの悩み―例えば真っ裸で走ってくる上司―のどこが問題かを明らかにしてあげようとする。それだけだ。
主婦、上原菜月は偶然街で再会した、元恋人の母から「これでよろしくて? 同好会」に誘われる。ぼんやりとした好奇心からこの会に参加するようになった菜月。期を同じくしてそれまで比較的平穏だった菜月の生活に、大事件が起こる。菜月の夫である光の妹が、彼女たちの家に転がり込んできたのだ。原因は母への不満。ようやく妹が帰ったと思ったら、次はその母親、菜月から見ればお姑さんが彼女たちの家で居候を始める。
そんな菜月を新メンバーに加えて、会合は開かれる。しかし彼女たちが取り上げる内容のなんと豊富なこと。そして菜月の毎日がなんと小さな問題や引っ掛かりに満ちていること。この女子会を覗き、菜月の毎日をこっそり見ていると、日常が小さな疑問にあふれ、その小さな疑問に対する答えや、答えのようなもの、妥協で日々の暮らしが回っていることに気がつく。
夕飯にカレーを出していやがられない回数はどのくらいか。夫の腕枕だと熟睡できないのは、どうすればいいだろう。夫からの誕生日プレゼントが“雑誌に載ってるようなもの”で、好きになれないのはどうしたらいいのか。なぜ夫は義母に“菜月が嫌がっているから帰って”なんて言うんだろう。比較的小さな問題から、嫁姑関係の危機的状況まで、菜月の毎日は「?」に満ちている。
菜月はこれらの疑問に答えを出す。カツを乗せればまたカレーでも大丈夫だろう。夫が寝たら腕枕をそっとはずそう。夫のプレゼントの「気のきき方」が嫌だなんて、贅沢な悩みに違いない、と自分に言い聞かせ、義母に“そんなことは言っていない”と伝える穏便な方法を探し、策略をめぐらせる。
彼女はこれらが、世界を揺るがす大事件でも深刻な危機でもないことを知っている。義母との問題も「話すほどのことじゃない悲劇」と思っている。しかし、その小さな悩みに一つ一つ折り合いをつけ、決断していかなければ暮らしていけないのだ。それは菜月だけの話でも、「これでよろしくて? 同好会」だけの話でもない。
小さな決断の積み重ねを侮ってはいけない。小さな決断、例えばその場でどういうセリフを口に出すか。菜月の家に転がり込んできた夫の妹はある日、菜月が夜外出することを知り、兄にねだる。「久しぶりにおいしいもの、外でおごって」。妹の言葉に何も言わない夫に、菜月は気まずさを感じ「わたしがいつも用意している「内」の食事は、おいしいものではないのだろうか?」と思う。当然の疑問である。夫は、居候中の母が作った鍋をおいしそうに食べ、菜月に言う。「菜月も少しは料理とか教わるといいよな、この機会に」。「突然の一時的同居、という事態をできるだけ愉快な目でとらえようとしていたのに」と菜月は驚く。なんという無神経な発言だ。
そのとき何を口にし、どういう行動をとるのか。「私」を作っているのは、性格や個性だけではない。この小さな決断が「私」を作り、「彼」を形作っているのである。だから人は刻々と変化する。夕食をカレーにするか、やっぱり違うものにするか。腕枕を外すか、外さないか。妹の発言をたしなめるか否か。それ以前に、発言の問題点に気がつくか否か。一つ一つ決断を下すことで、「私」も「彼」も一瞬一瞬、変化し続けているのだ。
菜月は、「これでよろしくて? 同好会」の活動を通じて、自分が変わっていることに気がつく。「変わってゆくんだ!」と。「今いるわたしは、もう結婚前のわたしじゃ、ないんだ。光と恋愛をしていた頃のわたしじゃ、ないんだ。」と。
変化するのは「私」だけではない。「彼」も変化する。変化する二人の人間が人間関係を作りだす。そしてときに、恋人となり夫婦となる。そして私が変化し相手が変化すれば、人間関係も当然変化する。
一瞬たりとも油断できない流動的な関係。これが人間関係なのだ。突然、恋愛や結婚が危険でスリリングな関係に見えてこないだろうか。相手も変わる。自分だって変わる。「私の気持ちは変わらない」なんて、あり得るだろうか。小さな決断一つですべてが変わりえるのに、不変の愛を誓い合うなんて恐ろしすぎる。彼がどんなに変わろうと、自分がどんなに変わろうと、愛だけは変わらないと誓うのだ。誓ったら「愛情がなくなってしまったの」なんて言葉は通用しない。不変の愛であれば、なくなるはずがないのだ。「愛がなくなった」と思ったときの別れ言葉としては、「愛だと思っていたけれど、なくなってしまった以上、愛ではなかった。気のせいだった」が正しいはずだ。
とはいえ、それを言うかどうか、それも一つの決断である。相手も自分も二人の関係も変わることを認めるかどうか。愛がなくなったのではなく、愛も形を変えたのだと受け入れるかどうか。それもまた、一つの決断である。世界は小さな決断でできている。そしてその決断が人を変え、愛を変えるものだと思うことも、その世界を回すための愛ある決断の一つなのではないだろうか。
以前の江南亜美子氏による『これでよろしくて?』の書評はこちら>>記事を読む