30代半ばの人妻、瑠璃子。夫には愛人がいる。瑠璃子を殴ることもある。夫が愛人宅に出かけたある朝、瑠璃子は家を出る。行き先は実家が所有する、山奥の別荘。
久しぶりに訪れた別荘の近くには、新田という40代の男が越してきていた。犬のドナと暮らす彼は、薫という若い女性の弟子とチェンバロを作っている。新田に心魅かれる瑠璃子に、薫は彼の過去を語る。かつてピアニストを目指していた新田は、精神的な要因から人前でピアノを弾くことができなくなり、チェンバロ製作に転向したのだった。やがて瑠璃子と新田は関係を持つ。瑠璃子は彼に自分のためにチェンバロを弾いてくれと頼むが、新田はやはりその願いをかなえることができない。あるとき、瑠璃子は、新田が薫の前でならチェンバロを演奏できることを知り、薫に対し強烈な嫉妬を抱くようになる……。
恋愛小説だ。しかも、これだけ見れば泥沼の様相である。DV夫、愛人、不倫、山奥での三角関係。薫と2人で出張に行こうとする新田に向かって、瑠璃子は行かないでくれと頼み「もし行くのならドナを殺すわ」と言い放つ。怖い。「薫さんのことを愛しているんですね?」と問う瑠璃子に、新田は「そうです」と答える。瑠璃子と肉体関係があるにも関わらず。ひどい。正真正銘、立派な泥沼劇である。
しかし三人の関係は澄み切っている。美しいとすら言える。この美しさは一体どこから生まれるのだろうか。
瑠璃子は、自分の場所を求めている。夫はすでに彼女に対する興味を失っている。彼を前にすると、瑠璃子は自分が空っぽであるかのように感じてしまう。彼女は自分に興味を持ってくれる人、心と体が空洞に感じられない場所を求めて、新田に恋をする。誰かから関心を寄せられ、ひいては愛される存在になれば空洞は埋められる。彼女はそう信じているかのようだ。そして関心を持ってくれた新田に、この人こそが満たしてくれる人だと瑠璃子は白羽の矢を立てるのだ。
一方の新田は、ピアノが弾けなくなった自分に負い目を感じている。ピアニストとしての将来を母や妻から嘱望されていたのに、彼らの望みを実現できなかったという挫折感と共に二十年近く生きてきたのだ。瑠璃子は、彼の挫折感を癒そうと試みる。それは新田がチェンバロ作りに失敗したときの瑠璃子の反応にも明らかだ。正しい音が出ないチェンバロを破壊する新田にかける言葉を、瑠璃子は探す。彼女の頭に浮かぶのは「あなたならまたいくらでもチェンバロを作れるわ」という励ましのフレーズだ。
「わたしのためだけにチェンバロを弾いてくれ」という願いも、「あなたならまたすばらしい仕事ができる」という励ましも、新田を以前の彼に戻したいという望みが根底にある。瑠璃子は懸命に、わたしと一緒に元の世界に戻ろう、そして互いを満たしあおうと言っているように見える。
しかし新田は、瑠璃子と関係は持っても彼女が誘う世界は選ばない。彼が選んだのは薫なのである。あるとき、新田は薫とチェンバロ製作中に、指先を切断するけがを負う。「もうピアニストには戻れませんね」と口にする瑠璃子に、新田は言う。「指が欠ける前からピアニストとして僕には何かが欠けていた。だからけがをしようがしまいが同じなんです」。薫をかばっているのかという問いには「彼女はただ僕のそばにいて、欠落が形になってあらわれた瞬間に、立ち合っただけです」と答える。
新田にとって薫は欠落を映し出す鏡である。空洞を目に見える形にする存在なのである。「何かが欠けている」ピアニストだった新田は、薫と向き合うことで自分の中の欠落に気がつく。そして欠落の存在を知ったときに再び鍵盤を奏でることができたのだ。
薫もまた欠落を抱えた存在だ。婚約者を失った彼女は、彼が占めていた心の一部を、彼の死後もそのまま空白として残している。薫は非常に食欲旺盛な女性として描かれているが、瑠璃子は彼女が食事をする様子をこう語る。「彼女の口元へ運ばれた食べ物たちは、鶏肉でもジャガイモでもパセリでも、深い暗闇へ吸い込まれてゆくように消えていった」と。
薫も新田も、欠落こそが彼ら自身の生きる理由であるように見える。薫は婚約者を忘れようとはしない。そして新田はピアノにまつわる過去に苦しみながらも、鍵盤からは離れない。ピアノからは遠ざかっても、同じく鍵盤を持つ楽器製作に没頭しているのだ。欠落した部分をなかったことにして新しい道を歩きはじめることを、二人とも拒んでいる。新田が再び薫の前で演奏できるようになったのは、元の世界に帰り、欠落に気がついていない彼に戻ったからではない。薫という、欠落こそがアイデンティティになりえる新たな世界の中で、自分の居場所を見つけたからなのだと私は思う。欠落も含めた自分の場所を。
一見、泥沼に見える3人の関係が美しく見えるのは、欠落がつかさどる、閉ざされた世界で起きている関係だからではないだろうか。外界では、欠落は文字通り「欠けている」以外の何物でもない。それがネガティブな意味しか持たない外界の価値観ではなく、欠落こそがその人そのもの、という三人だけの閉ざされた世界の価値観で照らすから美しく映るのだ。
新田は欠落が自分の一部であることに気がつく。欠けているものこそが自分なのだと。だからこそ、彼は瑠璃子が誘う外の世界、欠落は埋めるべきという価値観が支配する世界に戻ることはなく、欠落の世界にとどまるのだ。
対する瑠璃子はそうではない。空洞を埋めることを求めていた彼女は、最終的に外の世界に飛び出す。夫と離婚し、新しい仕事を初めることを決意して別荘から出て行く。外の価値観へと帰って行くのだ。
どちらの世界が正しいとか、どちらの選択がよりよいとかを決めることはできない。外の価値観で見てみれば、ポジティブなのは瑠璃子の選択であり、離婚した女性が再出発するという姿は魅力的だ。瑠璃子が幸せに、そして圧倒的に希望にあふれて見えてもいいはずだ。反対に新田と薫が不幸に見えてもいい。
しかし、二人だけの世界にとどまることを決めた新田と薫を見て、私は思う。たとえピアニストとして華々しく活躍できなくても、天才チェンバロ職人として評価されなくても、二人だけの世界の中で互いの欠落を映しだすことができればそれでいい、という生き方もありなのだと。励ますことも傷を癒すこともせず、相手の心の中の空洞を目に見える形にするためだけに存在する。そして自分の欠落を他の何かで埋めずに、空洞として抱えたまま生きる選択もありなのだ。外の世界ではもちろん評価されないだろう。不幸な生き方であるとすら言われるかもしれない。何かを生み出し、満たし、満たされることが評価される世界だから。しかし自らの中の欠落を認め、相手の抱える欠落をいとおしむ。そういう生き方、そういう恋愛関係もまた美しいものなのではないだろうか。山奥に静かに暮らす二人の姿に、私はそう思う。