「歴史で大切なのは、点と点を縦に結ぶことだよ」。序盤、登場人物の一人である陸子に家庭教師の野村さんはこう教える。この言葉を聞き、8歳の陸子は気がつく。物事はあちこちでいっぺんに起こっているのだと。
この作品は神谷町にある美術館のような洋館に住む柳島家3世代の物語であり、まさにあちこちでいっぺんに発生している物事の集積である。
章ごとに次々と柳島家の人々、そして彼らの周囲に暮らす人々が代わる代わる登場し、「今」の自分を語る。ページを繰るたびに私は、陸子の父、豊彦の1960年時点の心の中をのぞき見たり、1973年にさかのぼり当時6歳の長女、望と共に動物園に行ったりと、柳島家の歴史の点を体験することになる。二女、陸子は初めて通い始めた小学校での受難の日々を明らかにする。陸子の母、菊乃は自立心旺盛な20代の女性として登場し妻子ある男性との友情を、陸子の叔父、桐之輔はヨーロッパを放浪中、ポルトガルで出会った一人の少女との恋を描写する。
柳島家の人々は周囲から「変わっている」と思われている。子供たちは学校に通わず家庭教師について独自の教育を受け、叔父から体育の授業と称してビリヤードを教えてもらっている。ゆえに陸子は通い始めた小学校になじめない。家族たちは頬と頬とをくっつけ、抱擁を交わして「行ってきます」の挨拶をする。婚約者が他の男性との間に子供を身ごもっても、それを受け入れ結婚する男。他の女性を愛していることを打ち明け「彼女を失いたくない」と話す夫に、「じゃあ仕方ないわね」と応える妻。
彼らの姿は、やはりどこか世間の言う常識からずれている。しかし、なぜだろう。彼らの語る日常に、私はとても共感できるのだ。周囲にいれば間違いなく個性的な人と評し、場合によっては奇妙な人だと敬遠してしまいそうな柳島家の人々の視点に、自らを自然に同化することができる。小学校を不衛生で言葉の通じない場所だとみなす陸子。他の学生は着ていないレインコートを着て大学に出かけ、周りから「変わり者」と思われている陸子の兄、光一。姑との関係がうまくいかない菊乃の妹、百合は体を動かして家事にいそしんでいれば、思い悩み、考えずに済むと自分に言い聞かせる。桐之輔は正しいことと正しくないことの区別がゆるぎなくある友人を不思議に思う。
彼らの姿に、私は記憶の中の自分の姿を重ねる。給食時間に走り回る男の子たちが嫌いだったこと。母に「雨だから着て行きなさい」と言われて嫌々着て出かけたレインコートをクラスメートに奇妙な目で見られたこと。心の中に澱のように残る悩みを、仕事の忙しさで紛らわそうとする日々。「私が正しい」と言わんばかりに自信を持って語るTVのコメンテーターに対する違和感。
一風変わっている人たちに見える柳島家の人々に、なぜか親近感がわき起こる。それは、私の中にも彼らに似た何かがあるということではないだろうか。そう感じるのは私だけではないだろう。微かでもいい。過去の、そして今の自分が、彼らの一部に重ならないだろうか。柳島家の人々を「変わっている」と見なす、「世間」を構成しているのは私を含む読者たちだろう。しかし私たちも、体のどこかに柳島家の人々に通じる要素を抱えているのだと思う。他の人とは同じではない、一風変わっていてどこか奇妙な部分を。
百合はこう内省する。「他人を知っている気になるのなんて具の骨頂だし、そんなものは錯覚にすぎない」。そう、その通りだ。目の前の相手が何をどう感じているか、どんな奇妙な部分を抱えて生きているのかを完全に理解することはできない。彼の言う「正しい」と私の言う「正しい」は異なるかもしれない。私の言う「痛み」と他人の思う「痛み」は違うかもしれないのだ。それでも私たちは、他人の言う「痛み」と私の感じる「痛み」は同じだという前提で生きている。そうでないとコミュニケーションが成立しないからである。しかし同時に、私たちは柳島家の人々のように「他人を完全には理解していない」という原点に立ち戻ってみるべきではないだろうか。私の考えている「痛い」という感覚が確かなものなのかどうか。私の思う「正しい」が絶対的なものなのかどうか。
それは決して絶対的なものではないと私は思う。「痛み」や「正しさ」が絶対的でないのと同様に、「愛」や「幸せ」も、私の指すものと他人が思うものが一致しない可能性がある。柳島家の人々はその可能性を知っている。だから菊乃は、妻帯者の恋人、岸辺との関係をこう語る。「どうしても定義づけるなら親友であり、肉体関係は互いの性別が違ったことの結果にすぎないし、それは私たちの魂の結びつきをさらに強めた。いけないことだろうか」。定義しなくてはいけないのであれば、恋ではなく不倫でもなく「友情」であり、「魂の結びつき」だと、世間には受け入れられないことを承知で言う。世間と自分の感覚のギャップを踏まえた定義付けである。それに対して、柳島家の周囲の人々は「違うかもしれない」という可能性に対して無頓着である。だから彼らの言動にときに戸惑い、ときに理解できずに激昂する。それは、柳島家の人々の合間に登場する、非柳島家の人々、例えば光一の恋人や、岸部の妻、ひょんなことから柳島家に招かれる寿司職人たちの戸惑い気味の語りや苛立ちの声からも明らかだ。
「違うかもしれない」という可能性を認め、百合のように「他人を知っている気になるのなんて具の骨頂」と言い切ることは、冷たく受け止められるかもしれない。しかし私は、それこそが互いを尊重し愛することであると思う。相手のすべてを理解していると思いこむことが愛ではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。菊乃や陸子と同様、人は誰でも、世間からずれてしまう部分、他人には理解しえない部分をどこかに抱えていると私は思う。多くの人はそれを「どこか普通とは違うもの」として隠し、ないもののようにふるまう。そしてそれを隠そうとしない、もしくは隠すことができない他人を否定し、ときに嫌悪してしまうのではないだろうか。他人が、奇妙な何か、理解できない何かを内包している存在であることを受け入れ、さらに一歩進んで自分の中にも他人と同じように集団から浮いてしまう奇妙な部分が存在していることを認めること、それこそが互いを尊重することなのではないかと私は思う。それは家族といえども例外ではない。親であっても夫婦であっても、完全にはわかりあえない存在であることを認めること、それが愛なのではないだろうか。彼らはそれを実践して生きている。
本を読むことが大好きだった陸子は、大人になってこう悟る。
「いろんな人がいて、いろんな事情がある。いろんな時代があり、いろんな場所があって、いろんなことが次々に起こる。人は愛し、人は憎む。人は出会い、人は別れる。世の中が本のなかと似ているとわかってから、私はとても自由になった」。
陸子をはじめ、柳島家の人々はとても自由だ。彼らは人々の好奇の目にさらされることも少なくないし、それゆえに困難に満ちた生活を送ることもある。しかし私は、その自由な生き方に私は魅了される。彼らは自分の中にある奇妙な部分を押し込めようとすることもなく、他人を自分の理解の枠にあてはめようとすることもない。自由とは悩みが何もない状態でも、世界中を旅して歩くことでもないのだ。いろんな人がいろんな奇妙なものを抱えていること、その奇妙なものを完全に理解することはできないということを知り、それでもなおその人の存在を受け入れられたとき、自由は訪れる。そして同時に、他人から見れば自分もそういう存在であることを知ったとき、人は初めて真に自由になれるのではないだろうか。