子供が小学二年生になったとき、私は毎週小学校で行われている、読み聞かせのボランティアに参加しようと決めた。
ボランティア活動が好きだったからではない。
絵本が好きだった、というわけでもない。
実は子供も、そんな好きなほうではないのではないかと思っている。自分の子供は好きだけど、子供という存在全般が好きというわけではないのだ。世の中には子供なら誰でも好き、No children,No Life!みたいな人もいると思うのだが、そこまで固執しないのですね。
じゃあなんで? と聞かれそうだけど、理由は簡単で、
やつらをひいひい言わせたかったから
なのだ。やつらっていうのは子供のことね。
本を読んでがんがん笑わせて、まいった! と言わせてみたかったわけである。
その結果彼らが本好きになろうがなるまいが、そんなことはどうでもいい。
子供のためにやるんじゃない、自分のためにやるんだ!
そう思って参加を決めたので、ボランティアの会合では極力おとなしくしていた。周囲の参加者は(私以外は全員女性だった)、絵本を通じて子供の情操教育が、とか、よい本を読み聞かせて読書の悦びを教えて、とか言っている。
んなこたぁ、どうでもいいんだよ。俺はやつらをひいひい言わせたいだけなんだから!
そんなわけで極めて不純な動機で読み聞かせを始めた。やり出してすぐわかったことは、
1)言葉の響きがおもしろいものは受ける。
2)繰り返しギャグは絶対に受ける。
3)溜めを作れるものは基本的に受ける。
4)いけない言葉(うんことかおしっことか)を使っても、受けないことはある。
という国体(こ・く・た・い)四か条だった。最後の4)は意外かもしれないが、小学生低学年でも女子は潔癖なのである(男子はサル)。「うんこ」と私が口にした途端に「まあ、嫌だわ」と顔をしかめてみせる七歳のレディは実在した。安易な下ネタは芸を荒らすというやつですね。
あと、
5)自分が読んでおもしろかったからといって、読み聞かせで受けるとは限らない
これも真実だ。たとえば、よしながこうたくに『給食番長』(長崎出版)という作品がある。給食の時間に傍若無人な振る舞いをする番長たちが、給食のおばちゃんたちのストライキにあい、自分たちでその日のメニューをこしらえようとするが……というお話だ。まるで浜岡賢次『浦安鉄筋家族』のような展開で、私自身はたいへんおもしろかったのだが、子供たちの受けは今ひとつだった。これはよしながの責任ではなく、内容が読み聞かせ向きではなかったのだと思う。音読してみると、テンポがたしかにとりづらいのだ。むしろこれは個性的な絵がメインの本で、その絵を味わうスピードに合わせて文章を読んでいくべきなのだと思う。したがって、「音」がメインになる読み聞かせには向いていないのである(ちなみにこの本は、本文の博多弁バージョンがついている。もしかすると博多でご当地言葉を使って読み聞かせしたら、がっつんがっつん受けるのかもしれない)。
さあ、そんなわけで、これなら絶対に受ける、誰が読んでもがーんと受けて、呼吸困難を起こすぐらいに子供たちを笑わせられる、という本をご紹介しよう。
ケス・グレイ/文・ニッケ・シャテット/絵『ちゃんとたべなさい』(よしがみきょうた/訳。小峰書店)だ。
グレイとシャテットのコンビは、デイジーという小さな女の子を主人公にしたシリーズを何冊か書いているのだが、この作品がたしか第一作だ。本書で、イギリスの子供たちが選ぶ2001年度チルドレンズ・ブック賞絵本賞の大賞を受賞した(と折り返しに書いてある)。
お話は簡単。ママがグリーンピースを食べさせようとするのを、デイジーは断固として拒絶する。
「おまめ、だいきらい」
ちょっと気弱そうな顔のママは、デイジーを懐柔しようとして、こんな条件を持ち出してくるのだ。
「おまめをたべたら、アイスクリームをあげるから」
だがデイジーは、にべもない。
「おまめ、だいきらい」
やむをえずママは新たな条件を繰り出す。
「おまめをたべたら、アイスクリームをあげるし、いつもより30ぷん、おそくまでおきていてもいいから」
賢明な読者は、このお話がどういう展開になるか、もうお気づきだろう。そう、ママの提示する条件は次第に長く、長くなっていくのである。この単純な繰り返しギャグが、子供にはぎゃんぎゃん、受ける。ママの台詞を読むときには絶対息継ぎをせず、一息で読みきること。開始前の発声練習、腹式呼吸の準備は必須だ。だって最後の方では、こんなたいへんなことになってしまうのだから。
「おまめをたべたら、アイスクリームをスーパーマーケットごと、かってあげるし、ずっとおきていていいし、がっこうにいかなくていいし、おふろにはいらなくていいし、かみをとかさなくていいし、くつをみがかなくていいし、おへやをそうじしなくてもいいし、じてんしゃやさんと、どうぶつえんをかってあgるし、チョコレートこうじょうを10けんかってあげるし、1しゅうかんゆうえんちにつれていってあげるし、ぎゃくふんしゃそうちがふたつついているロケットだってかってあげるから」
……どうして、そうなった。
ためしに音読してみてほしい。血圧の高い人は気をつけてね。
こうやって書くと馬鹿母とわがまま娘のいやーな話に見えるかもしれないが(特にお子さんのいない人は、ね)、実際に読めば、そんなふうには感じられないのでご安心を。子育ての時間の中では、親はちょっと大人の顔になって、わが子に厳しく接しなければならないものである。でも、それは疲れるのだ。本当は親の中にも大人になりきれていない部分があって、めんどくさいなあ、と感じている。子供はそれを見抜いてしまうことがあるのだ。おもしろいのは、見抜いているのに、それを口にしないこと。子供だって、大人に気を遣って、たいへんなんだろうなあ、と同情してくれているのだ。本書の作者たちは、そういう疲れてしまう親子のお芝居をちょっと休んでみたらどうでしょうね、と提案してくれているのだろう。
ちなみにこの本は、五年間の読み聞かせで唯一、子供たちのアンコールがあって二回読んだ作品でした。二回目に読んだときの、子供たちの期待に満ちた顔が忘れられません。