継続的に流れてゆく時間を、瞬間的に真四角に切り取る。写真におさめると、確かに存在していたあの一瞬が映っているはずなのに、時間が永久に止まっているせいか、違うものに感じることがある。それとも、人の記憶、というのは曖昧で信用ならない、ということなのだろうか。
第32回野間文芸新人賞を受賞した柴崎友香の『寝ても覚めても』。主人公の朝子は、麦(ばく)に一目惚れをして付き合う。彼女はカメラが趣味だったが、麦は写真に撮られることを忌み嫌っていた。ある日、彼は上海に行くと言ったきり消えてしまう。
月日は流れ、舞台は大阪から東京へと移る。未だに麦を忘れることができない朝子の目の前に現れた亮平。彼は、顔が麦にそっくりだった。声も話し方も全く違うけれども、朝子にとって、亮平は麦だった。最初は避けていたはずなのに、二人は恋に落ちる。
亮平は素敵な男性だった。こうやって平穏な日々が続くのかと思っていたが、麦はテレビを通して朝子の前にまた現れる。そう、麦はいつの間にか俳優になっていた。朝子の心は、揺れる。
本書では、大切だと思われる場面ほど描かれていない。よくある恋愛小説では、二人はいかにして出逢い、恋に落ち、様々な障害をくぐり抜けて結ばれるのかをじっくりと余すところなく書き連ねる。けれども、この本はいつの間にか二人は付き合い、そしてあっさりと麦は朝子の元から去っていく。
そのかわり、本当に何でもない日常を、だらだらとした印象を持つ文章で綴られている。それなのに、無駄だと感じる部分が一切ない。どんな時でも、どんなことが起ころうとも、時間というのは待つことがなく、急ぐこともなく、私達の中を通り過ぎてゆく。そんなことを、この本を読んでいると改めて思い出させられる。
ところどころに1~3行の短い段落がぽつんぽつんとある。とても重要な箇所だから強調したい、という訳でもなく、これもまた何でもない日常だ。例えば、<肉も野菜も順調に焼かれていった。焼かれると食べられてなくなった>。きっと明日になってしまえば忘れてしまうだろう出来事。
これらの段落は、写真に似ている。写真は事実のみをうつす。肉も野菜も焼かれて、食べてなくなったのは事実だ。けれども、その時の味も香りも一緒に食べた人との会話も何もかも記録してくれない。そして、写真におさめた瞬間、それは過去になる。だから、麦を撮影することが出来なかった朝子は、いつまで経っても彼を過去の存在にすることが出来ない。彼女の中で、麦との時間はまだ続いていたのだろう。
また、朝子自身もこう言っている。<前に、地球に帰ってきたら何百年も経っていて誰もいない、という映画を見た。実は一秒しか経っていなかった、という結末だったかもしれない>。写真、という事実を残すことが出来なかった朝子は、曖昧な記憶、に頼らざるを得ない。日々の生活の中に、思い出は少しずつ溶け出して、輪郭が薄れる。麦がどんな人間だったのか、時間が経った今、彼女には明確に思いだすことはできない。
人の記憶と同じくらい、言葉もあてにはならない。朝子の「好き」と麦の「好き」は、同じ単語であっても、同じ意味を持たない。どんなに言葉を重ねても、二人は分かり合うことなんて絶対に出来ない。柴崎友香は、そんな言葉の無力さを痛感しているのではないか、と勝手ながら思う。この本からは、何かを伝えたい、という強い気持ちが伝わってこない。ページを捲っても捲っても、淡々と同じような毎日が繰り広げられる。
だから、読み始めた時、苦痛に感じる。どこが面白いのだろうか、と本を投げ出したくなる。それでも読み続けて本を閉じた時、じわじわと込み上げてくるものがある。
文字で表現できないことを文章にしようとした、柴崎友香の真骨頂であると言い切れる一冊だった。