先日、新人賞を受賞し世間を驚かせた某有名俳優と名前の雰囲気も似通っているし、同じく処女作ということで。というわけではないが、どういうわけだがくだんの受賞騒ぎ以降、全然関係ないくせにたびたびわたしの頭に去来しては妙な存在感を示し始めた「長嶋有」の名に観念して本棚にあった文庫に再び手を伸ばした。
「サイドカーに犬」「猛スピードで母は」
長嶋有は本書の収録二作でそれぞれ、文學界新人賞と芥川賞を受賞。
「サイドカーに犬」はひと夏の思い出を振り返る姉弟の、とりわけ姉(私)の物語で、小学4年の夏、母の不在時に出会ったひとりの女性・洋子さんとの交流を描いた作品である。表題作「猛スピードで母は」は、なんだか無鉄砲でつかみ所のない母と、小学校高学年の少年・慎の奇妙な親子愛なのか友情なのかの話である。
「サイドカーに犬」や、他作「ジャージの二人」などは映画にもなっているので、そちらで既にご存じの方もいるかもしれないが、長嶋有の作品は片親であることが多い。そこには、家族関係、親子関係が一度破綻した後に始まる、奇妙な絆関係が見え隠れする。独特の語り口も巧妙で面白い。
独特の語り口をわたしは妙に乾いた文体だなと感じた。ドライというか、冷めているというか、前のめりというよりは後ろにちょっとのけぞったような文体なのである。どうしてなのだろうかと読み進めているうちにその文体がいつのまにか体になじんでいることに気づいた。
本作における長嶋有は視点を下げて語っている。物理的にも精神的に視点を下げている。つまり「子供になっている」のである。
『自宅の真ん中で体育座りをしていると、足ばかりどんどん成長しているように思えてくる。胸も大きくならないし、体重も増えた気がしない。抱えた膝の山だけ高くとんがってきているような気がする』《サイドカーに犬》
『慎は歯をみがきながら洗濯機の泡をみつめた。中の水は渦を巻いているが、上に膨れ上がった泡は回っているのかいないのか分からない』《猛スピードで母は》
小学校高学年あたりの少年、少女に据えられた、子供の視点はまさにわたしたちが読書を通じて、そういえばこんなことを感じていたっけ、こんなところを見ていたっけ、という原風景の再発見に繋がっていくようである。人は大きくなるにつれ視野が広がりより多くのものを見ることができるようになる。距離的にも精神的にも興味はどんどん外側に向いていく。そして引き換えに身近なものが見えづらくなってくる。常識や習慣がどんどん身に付くからである。いつの間にか夜は暗いものだと知っているし、夏は暑く冬は寒いものだと決めている。それを知ったばかりの頃の「なぜだろう」対「そういうものなのだ」のせめぎ合いの感覚を本作は思い出させてくれる。
『ゆっくりと停車するとスタンドの店員が近寄ってくる。助手席で慎は落ち着かなくなる。店員たちは、慎の方をみているようでみていない。慎を含めた車全体をみながらやってくる。運転席の窓をあけてからのやりとりも「満タンお願いします」「かしこまりました」ぐらいのものだ。それからやわらかそうな布でフロントガラスを拭いたりする。ワイパーを丁寧な手つきでよけながら拭いていくのを慎は見続ける。相手はとても親切な感じだが、自分とずれたところをみて、親切にしている。まずまず落ち着かない気持ちになった』《猛スピードで母は》
そういえば小さいころ感じたことあるなあ、ということを不意に思い出させてくれる。そんな共感が「私」や「慎」を受け入れる滑走路となっているようだ。
そして同時に思うのは、子供というのはそういえば圧倒的に受け手の存在である、ということである。与えられた環境を自力で変えることもできず、周囲に巻き起こる出来事を力強くはねのけることもできない。
わたしは小さい頃、たびたび転校を繰り返していた。親から「引っ越しすることになった」という告白を受ける度、張り裂けんばかりに小さな胸を痛めた記憶がある。悲しいことだがどうしようもない、と、その運命を受け入れてきた。拒否なんてもちろんできるわけがない。ちなみに何度か「行きたくない」と訴えたことがあるが、「じゃあ置いて行く」と言われる。すると、家族と離れる方がよっぽど悲しいという事実に直面するのであった。幼いながらに生活面など経済的なことも考えた気がする。仮にいま親がどこかに引っ越すことになってもどうぞどうぞである。わたしは自分の生活を変わりなく続けられる。子供は全面的に一人では生きて行けないのである。だから受け入れ、観察することで次々にやってくる未知の出来事たちとの折り合いを付けて行く。
そう。「観察」だ。
本作の主人公たちは「観察」しているのだ。立ち向かうべき(敵としての)現実なんてものはそこにはなくて、ただただ押し寄せる現実の数々に巻き込まれながら、のけぞりながらもその中で出来事を彼らはじっと観察している。見つめる意外ほとんどなにもしない。何もできない。しかしその瞳はとてもまっすぐである。まっすぐだからこそ、子供ながらに感じることを素直にアウトプットしている。その描写がときに滑稽で、ときにとりとめもなく、ときに悲しいくらい鋭い。
「洋子さん」や「母」は主人公たちの面倒を見てくれる存在である。子供たちにとっては手の届きそうで届かない大人。そんな大人を「私」そして「慎」は見つめる。瞳は見落としてしまいそうな些細な変化もまっすぐ観察する。その瞳を通して見つめられた「洋子さん」や「母」はだから大きな存在であり、そして、いつか感情が決壊するどこかはかない存在でもあるということが、ふと、浮かび上がる。
長嶋有は、じつはそのようにして巧みに子供の視点というものを用いて、「洋子さん」や「母」のように役割を与えられた大人の仮面に小さく小さく亀裂を入れていって、やがてその向こうにちょっとだけ見える「なんだかうまく言葉にできないしよくわかんないけど、よくわかる」ものを一生懸命描き出そうとしているように思えるのである。そのレイヤーの描き(重ね)方は見事だと思う。
長大なスペクタクルも、息をのむミステリーも、むせび泣く感動もない。派手なことはほとんどない。だけどそれがいい。身の回りに起きること、視点をシフトさせればちょっといつもと違って見える可能性を持った日常。もしかしたら自分にまだ見せたことのない顔を持っているかもしれないあの人。本作はそんなことを感じさせてくれる。身の丈にあったサイズできゅっと奥ゆかしく胸をつかんでくれる。
「見たよ!」
と声を大にして言えず、目の当たりにした重大事実を、驚きつつちょっと微笑み胸にしまいこむ。子供の姿を借りた恥ずかしがりやの日本人がぎゅっと詰まったような作品だなあ。
そんなことを思って、手に取った本をまた本棚に戻したのだった。