バー=ゾウハーは、冷戦はもちろんのこと、ナチス・ドイツやパレスチナ問題を追及してきた作家である。詳しくは本書の吉野仁氏による解説を読んでいただくとして、バー=ゾウハーは、ユダヤ人にまつわる問題をライフワークとして果敢に取り上げてきた。『ベルリン・コンスピラシー』は、その結晶とも呼ぶべき作品である。ホロコーストとそれに対する復讐という、あまりにも根源的な問い掛けを、そっくりそのまま作品の中心テーマに据えたからである。その純度は、バー=ゾウハーの他の作品に比べても極めて高い。しかも、ネオナチ勢力が勃興しているドイツの現状を取り上げて、現代への警鐘も鳴らすという念の入りようである。
ナチス・ドイツがユダヤ人にはたらいた非道と、連合国によるドイツの戦後処理を比べて、ユダヤ人が不満を抱くのは、感情的には痛いほど理解できる。特に、家族や友人が収容所で殺された人が、この世に神などいるものかと嘆き、怒るのは当たり前とすら言えよう。
バー=ゾウハーは本書でこの嘆きや怒りを「ユダヤ人による元SSの殺害」として描いた。注意すべきは、この殺害が決して「正義の実現」としては描かれていないことである。ルドルフらは、いくら元SSとはいえ無抵抗な人間を殺害するという行為に嫌悪感を抱き、すぐに活動を停止してしまう。これは、人道へのバー=ゾウハーの信頼の表れに他ならない。だがしかし、彼らユダヤ人のドイツや世界に対する諦念・疑念は、全く解消されていない。それがルドルフの意固地な姿勢と、ある悲劇に繋がっていく。
一方、ギデオンら彼の子供に相当する世代は、かつての恩讐を超えた人間的繋がりを見せ始めるのである。ルドルフが殺害した元SS将校の孫娘にして事件の担当検察官マグダと、深い信頼関係を築き上げることになる。
ホロコーストの直接の被害者であった旧世代が抱える根深い疑念と、間接的にしかそれに接していない新世代の未来志向が並存することで、物語は厚みを増している。そしてだからこそ、ネオナチあるいは根深い反ユダヤ主義、そしてその根底にある「差別意識」と「排外志向」という問題の重さが感得できるのだ。ナチス・ドイツとホロコーストは歴史の彼方に消えた。しかし、それらを生み出した人類の醜い性根は、またいつ発露するかわからない。いや、もう発露しているのかも知れない。その問題意識が、全編を貫くテーマの核心となっていく。
というわけで、『ベルリン・コンスピラシー』は奥行きの深い人間ドラマ、社会ドラマを見せるのであるが、同時に、バー=ゾウハーのもう一つの特徴、トリッキーな謀略が存分に味わえることも言っておかねばなるまい。
作品内でリアルタイムの問題になっているのは、実はユダヤ云々ではなく、アメリカのイラン攻撃計画と、ドイツ総選挙(すなわちドイツ首相の命運)、そしてイランに肩入れするドイツの反米姿勢である。各勢力は社会正義の実現など題目としか考えておらず、全てを自分の都合のために利用しようとせめぎ合う。ルドルフの逮捕劇もその駒の一つに過ぎない。そして、彼らは奇々怪々な陰謀を張り巡らし――人道とは程遠いところで「国益」が追求されるという醜い構図が、作品のテーマ性をさらに深めている一方で――奇々怪々の騙し合いと、二転三転する真相の行方が、本書が間違いなく「ミステリ」でもあることをはっきり示していることを忘れてはならない。本書はただ重いだけの小説ではなく、謀略を暴く「楽しい」謎解き小説でもあるのだ。
思えば本書の物語には、冷戦があまり影響していない。これはマイケル・バー=ゾウハーの旧作にはなかった特徴である。しかし上質のミステリと、骨太のテーマ追求型小説は、冷戦を扱った諸作品同様、見事に両立されているのだ。『ベルリン・コンスピラシー』を描くことで、この作家は、「冷戦後」の21世紀においても国際謀略小説がまだ輝けることを示したかったのかも知れない。そしてそれは成功を収めている。バー=ゾウハーの魅力がたっぷり詰まったこの作品、是非多くの方に触れていただきたいと思う。