「ニヒリズムに裏打ちされた都会のソリチュード(孤独)を描いて圧倒的にいい」(石原慎太郎)、「正確に厳密に言葉を選んで書かれていて小道具も生きている」(村上龍)と大絶賛された芥川賞受賞作『ひとり日和』から3年。青山七恵の最新書き下ろし長編『魔法使いクラブ』は、リアリズムに裏打ちされた思春期のソリチュード(孤独)を描いていて圧倒的にいいと思う。いや、まじで。
人生のあけぼのというべき一時期の気分を、説明を排したていねいな描写と絶妙なバランス感覚でキャッチアップすることに成功している。子供時代に特有の全能感も、危うい心理状態も、大人たちよって形成される不穏な環境も、こうという決めつけがないので、何だかとても美しいもののように思えたりするのが、たまらない。
表現はどんな瞬間に生まれるのかというテーマが一貫して追求されていること、必ず新しいタイプの男が登場し何らかのヒントを与えてくれることの2点が、この作家の特筆すべき美点だと私は思う。『魔法使いクラブ』では、8年間にわたる3部構成の時間軸を通して、そのあたりの魅力がじっくり味わえる。社会に適合しない不完全な関係をベースに、生きるための力がどのように出現するのかが焦点になっている。
主人公は「あたし」こと「角来結仁(かくらい・ゆに)」。第一章で小学4年生だった彼女は、第二章では中学2年になり、第三章では高校3年になっている。
第一章は、特に問題なく幸せそうに見える家族や、近所に住み一緒に魔法の練習に励む「葵」と「史人」など、家族と友人に恵まれた子供時代が描かれる。
「あたしはお兄ちゃんみたいに頭がよくないし、かといってお姉ちゃんみたいにきれいでスポーツができるわけでもない。でも、あたしは絵が上手で、しかもそのうち魔法が使えるようになるのだ。勉強やスポーツより、それは何倍もすごいことだという気がして、そのことに気づいていないお姉ちゃんやお兄ちゃんがちょっとかわいそうなくらいだった」
だが、七夕飾りの短冊に「魔女になれますように」と書いたことから「あたし」はクラスで孤立してゆく。大好きな「伊田くん」だけは「別に。いいと思うよ。角来さん、そんな感じするもん」「空飛べるようになったら教えてよ」とさらっと言うし、「史人」だって「結仁ちゃんはほんとのこと書いて、勇気あるよ。僕、尊敬する。すごいと思う」とどもりながら一気に言うのだが……。この2人は8年後、「あたし」にとってどういう存在になるのか? 登場人物たちの成長を楽しみに待ちたいところだ。
第二章では、魔王使いクラブの3人の関係が微妙に変化してゆく。
「魔法のことは、さすがに心の底から信じてるわけじゃない。あたしはもう、サンタさんがいないことは知っているし、赤ちゃんがどうやってできるかも知っているし、パパが帰ってこないのはたぶん仕事のせいだけじゃないって、ちゃんと知っているつもりだ」
「あたし」の家族もバランスの悪さが目立つようになり、それぞれが勝手に動き出す。姉を除く4人が食卓に集まる、最後の晩餐のような場面は秀逸だ。
「それにしても、平日の夜にこの四人で食卓を囲んでいるのはすごくへんな感じがする。しかも、こんなごちそうだ。いつおめでたいことの発表があるのかと、あたしは緊張しながらチキンの足を銀紙越しに握って、しょっぱいお肉をかんでいた。かんでもかんでも味がなくならなかった」
このチキン、クリスマスみたいなごちそうと表現されるのだが、かんでもかんでも味がなくならないしょっぱいチキンって、何だかこわい。ほとんど誰も何もしゃべらないのに、映画のように雄弁なシーンだと思う。
第三章は、趣がずいぶん変わる。高校3年になった「あたし」はなんと、「遠江さん」という年上の男と暮らしているのだから。彼は「あたし」のいかがわしい写真を撮り、「あたし」は家に置いてもらう交換条件としていくつかのことをする。女子高生を食い物にする変態男? いや、そんなふうには書かれておらず、むしろ、とても優しくていい男のように思えたりもする。ただし不健全な匂いは周囲の反応からも明らかで、高3女子がこういう男と一緒に暮らすのはいかがなものか、という緊迫した状況が静謐な筆致で写し出される。
「遠江さんは、何かをしぼり出すみたいに、あたしを抱きしめていた。あたしは自分を、ちょうどいい温度、ちょうどいい弾力を持つ静かな生き物のように感じた。それが遠江さんのこわい気持ちを鎮めるのに役立つのなら、どうぞ使ってほしいと思った。こういう気持ちは、好きという気持ちの延長にあるものなのか、それともまったく別のものなのか。伊田くんに対してもこんなふうに思えるか。あたしは自分に問いかけた。答えが出そうになると、また新しい痛みがやってきて、あたしは考えるのをやめてしまった」
痛すぎて、愛おしい。大人でも、こんな状況から抜け出すのは難しいことだろう。結論なんて容易には出ないのだ。
「あたし」はいつも、好きという気持ちのバリエーションや濃度を敏感にとらえようとしている。この鋭敏さは重要で、今はだめでも、やがて「あたし」は幸せな恋愛ができるだろうと思える。「あたし」はいろいろなものを失ったり捨てたりするが、安易に別の何かを拾ったり希望を見出したりしない。この後、さらなるソリチュードが待ち受けているのだろうけれど、この感覚があれば、きっと大丈夫という予感が抱ける。楽に生きることを覚える前の尖った季節に、この作家の原点が感じられて温かい気持ちになる。
8年の歳月の中で、いくつかの謎が解明する。自然にわかったり、思いがけない形で知らされたりするのだが、これこそが<魔法が解ける>ということなのだろう。言葉や知識以前のわずかな本能で世の中と向き合わざるを得ない子供時代の光と影が、くっきりとしてくるのである。
終盤、何人かの男が「あたし」に助言をする。それらの言葉はとてもひ弱だが、リアルな響きで主人公をゆさぶり、読者をゆさぶる。好きという思いを初めて相手に伝えるときのような、小さな震えとともに。
どんな孤独な状況においても、誰かがもたらす小さなサインさえ見逃さないようにしていれば、必ず、希望のある方に逃げられるのだろう。自分の力と表現に、出会えるのだろう。