耳とはなにか。むろん、それは聴覚をつかさどる器官である。しかし村上春樹の小説においては、しばしば耳のフォルムが問題になる。なるほど耳というのは、あらためて見てみると、実に奇妙な形をしている。グロテスクであり、同時に優美である。それは、普段、あたりまえのように接している自分自身の身体の一部でありながら、「なんで?」と問いかけたくなるような、ある種独立したたたずまいを見せている。そのよそよそしさは、慣れ親しんだ世界が、なにかのきっかけによって変容しはじめる村上春樹の小説世界を「象徴」しているようでもあるし、しかしそうした「象徴」の方向で解釈しようとすると、耳はただ単にぶっきらぼうな耳として、ヘンなカタチのままにただそこに描かれているだけで、深読みしてもムダのように思えることも多い。
ちなみに耳といえば話は脱線するが、しばしば格闘家で耳がつぶれているというか、ボコッと腫れている人を写真やテレビなどで見かけるが、あれは外部からの殴打によって、耳の軟骨やその周囲の組織が破壊され、そこに血液が溜まって、外耳が紫色に腫れるのだそうである。で、その名前だが、誰が命名したのか知らないが、あれを「カリフラワー耳」と呼ぶらしい。カリフラワー耳。この名前には不気味さと滑稽さが絶妙にブレンドされていて、結果、ミもフタもない感じになっており、なんだか村上春樹の小説にふさわしい気がする。なにしろ、結婚相手が「氷」だったり(「氷男」)、名札を盗んだのが「猿」だったり(「品川猿」)するのが村上春樹の短編世界である。
さて、長編作品と通底する「モノ」に注意するとともに、村上春樹の短編を読む楽しみとして、ぜひやってみてもらいたいのが、自分が「好きだ」と思える一篇、あるいは逆に、忌避したいがどうにも気になってしまう一篇について、自分なりのポイントというか、細部を見つけることである。例えば先に挙げた「めくらやなぎと眠る女」で言えば、筆者の場合、ポイントは「バス」である。「バス」は、「耳」ほど前景化することはないが、この短編の中でとても効いている、と思う。
【バスが新しくなったことと、乗客の数が思ったより多かったことが、僕をいくらか混乱させた。あるいはこの路線の環境が、知らないあいだに変わってしまったのかもしれない。僕はバスの中を注意深く見回し、それから窓の外の風景を眺めた。でもそこにあるのは、昔と変わりのない静かな郊外住宅地の風景だった。
「このバスでいいんだよね?」といとこが不安そうに訊いた。たぶん僕がバスに乗ってからずっと戸惑った表情を顔に浮かべていたので、心配になったのだろう。】
ここには、いとこと僕の共通点と相違が、同時に書き込まれている。いとこもぼくも、周囲の環境としっくりいっていないという軽い失調を共有している反面、僕の「混乱」と、耳に障害のあるいとこの「不安」は明らかに種類の異なる心の状態である。いとことぼくの距離は、近くて遠い。この「距離」の創出は、タクシーでも電車でも、徒歩でもダメなのではないか。
細部はむろん、長編にだってあるが、長編の細部の味わいは、基本的にその箇所を通過したときのものである。対して短編の場合、自分がどのような細部を発見するかによって、一つの作品全体の受容が変わってしまう。
あの決定的な名編「蛍」(あまりに悲しく美しいこの小説にはふさわしくない言い方かもしれないが、間違いなく、世界文学史上に刻まれる傑作である)であれば――あくまで筆者の場合は、ということだが――「雨」と「二十歳」である。少し長くなるが、こんな場面。
【六月に彼女は二十歳になった。彼女が二十歳になるというのはなんとなく不思議な感じがした。僕にしても彼女にしても本当は十八と十九のあいだを行ったり来たりしている方が正しいんじゃないかという気がした。十八の次が十九で、十九の次が十八――それならわかる。でも彼女は二十歳になった。僕も次の冬には二十歳になる。死者だけがいつまでも十七歳だった。
誕生日は雨だった。僕は新宿でケーキを買って電車に乗り、彼女のアパートに行った。電車は混んでいて、おまけによく揺れた。おかげで夕方彼女の部屋に辿りついた時には、ケーキはローマの遺跡みたいな形に崩れていた。それでも一応二十本のロウソクを立てて、マッチで火をつけた。窓のカーテンをしめて電気を消すと、なんとか誕生日らしくなった。彼女がワインを開けた。それからケーキを食べ簡単な食事をした。
「二十歳になるなんて、なんだか馬鹿みたいだね」と彼女は言った。食事が終わると二人で食器をかたづけ、床に座ってワインの残りを飲んだ。僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。】
「彼女」が崩壊する、つまり、精神を病む前夜の様子である。わかる。これは、そういう場面だ。これが発展して『ノルウェイの森』になっていくのである。ああ、よくわかる!雨と二十歳。
『めくらやなぎと眠る女』の500ページには、このようにして多くのアイデアと、「発見」されるのを待っている細部が息づいている。うごめいている、と言い換えてもいい。それは間違いない。
しかしそれでも村上春樹は、いつも決まって同じ事を書いていると思う、たぶん。
『めくらやなぎと眠る女』を通読すれば、そのことがわかる。
村上春樹『1Q84』の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
レビュワー/北條一浩 書評を読む
レビュワー/三浦天紗子 書評を読む