一方、「センス・オブ・ワンダー」のほうに特化した「実験」系春画も、江戸期に入ってますます健在。わけても無款の『耽溺図断簡』の、極端にリアルかつ執拗に描かれた結合する性器の超クロースアップを中心に、生々しい粘膜と皮膚と脂肪と筋肉がダイナミックに絡みあうさまのハードコアな迫力に圧倒されます。わけても濃厚なディープキスのあまりに顔全体がグニャッと変形してしまっている老婆と老爺の交合図が圧巻。同じ老婆と老爺の取り組みでも、歌麿の弟子の喜多川藤麿が描いた『春情諸色』になると、「高砂」の尉(おじいさん)と嫗(おばあさん)が、箒と熊手と鶴と亀をかたわらに、高砂の浦にて一儀に及ぶという見立て絵となり、実験精神がだいぶ「遊び」に傾いている感があります。男女の幽霊が生身の人間と絡む勝川春章の『春画幽霊図』、内容は題を見て推して知るべしの無款『一男十女図』など、「実験」×「遊び」系の作品も充実したラインナップです。
近世の日本では、男色に対して近代以降ほど厳しい嫌忌感がなく、春画や好色文学にも数多い男色ものが含まれていたことは、ある程度は常識として知られているかと思います。近年では「男色もの」に焦点をおいた研究もだいぶ進んできましたが、既存の春画の画集では、もっぱらヘテロセクシュアルな男女の取り組みの図だけが選別され、本来はそこに入り混じっていたはずの男同士の取り組みの図が除外されるか、それだけが別枠に追いやられてしまっているという憾みがありました。その点からも、現存する最古の男色図である『稚児之草紙』を本格的に収録している本書は画期的です。
三橋順子氏の快著『女装と日本人』(講談社現代新書)は、太古のヤマトタケルの女装から、現代のはるな愛の活躍に至るまでの、日本における「女装」文化の歴史を辿る壮大な試みですが、近現代には「厳密に分け隔てられて当然のもの」として取り扱われてきた女色と男色が、近代以前には必ずしも対立するものではなかったことに関しても、ひじょうに興味ぶかい記述があります。
三橋氏によれば、『稚児之草紙』に描かれているような、成人男性の性愛の対象となる女装の少年である稚児は、中世におけるひとつの美の理想としての「双性の美」を体現する存在でした。その稚児に扮装した遊女が演じる白拍子の舞から、能をはじめとする女装の芸能、男装の女性と女装の男性が入り混じって演じられた阿国歌舞伎、そして歌舞伎の女方に至るまで、脈々と続いてきた異性装の芸能の系譜においても、この「双性の美」に対するあこがれは引き継がれてきました。
女装した若い男性が、「変態」ではなく、「美しく、魅力的な存在」として憧憬されていた時代、浮世絵の世界においてもその感覚は活きていました。三橋氏は、18世紀の浮世絵の美人画において、陰間や女形などの女装した男性が、生まれついての女性と堂々と肩を並べて、「美人」として描かれている例をいくつか挙げています。当然、春画においても事情は同様で、鈴木春信の名高い艶本『艶色真似ゑもん』に含まれている、陰間とその客の若旦那の男同士の取り組みの図をはじめ、陰間相手の男色を描いたいくつかの作品を紹介したうえで、次のような指摘がなされます。
「男色に対する社会的違和感が少なかったことは、奥村政信にしても鈴木春信にしても、一般の人々が楽しむ男女の性愛(女色)を中心とした春画シリーズの中に、ごく自然に女装の男性である陰間との性愛(男色)を一枚か二枚入れていることからもうかがえます。現代にたとえれば、女性のヌード写真の中に女装の美少年のヌード写真を数枚混ぜてセット売りしているようなものです。今、そんなものを売ったら、購入した男性からクレームや返品要求が続出して、商品として成り立たないでしょう。この時代の「女色」と「男色」の境界は低く、人々の性愛観は近現代よりずっとおおらかだったと推測されます。」
『女装と日本人』の近世に関する記述を読み、そして『稚児之草紙』をはじめとする、本書収録の春画の数々を改めて見つめてみると、疑うまでもなく確実であるかに思える自分と他人の肉体についての感覚と欲望のありようが、実際にはひどくあやふやで捉えがたいものでしかないことが、生々しい実感として迫ってきます。
過去の時代の人々の「センス・オブ・ワンダー」の産物ともいえる春画は、現代のわれわれにとって、また違った意味での「センス・オブ・ワンダー」をかきたててやまない対象です。華麗なおべべと乱れ髪と白い柔肌と粘膜とヒダヒダとイボイボと、そして不思議と美と笑いと戦慄の渦巻く、めくるめくワンダーランドへようこそ。