古典的な俳人、例えば芭蕉や蕪村、一茶などの句集は持っていて繰り返し読んでいる。明治以降では、子規の句集を蔵書している。「現代」の俳人では、亡くなるまで目が離せなかった寺山修司の句集を持っている。そして、今活躍している俳人の句集を買おうと思ったことはなかった。師を持たない、ヘボ俳人である私としてはそれでいいと思ってきた。
しかし、この句集は「どうしても見逃せない」と感じて買った。
浅井愼平が写真家であることはいうをまたない上に、陶芸に造詣が深いだけでなく陶芸家でもあり、小説も書き、テレビではコメンテイターとして知られる。ジャズについて語るとき、スポーツについて語るとき、鮮烈な言葉で一気に本質をつき、持って回った物言いをしない。しかもそこにユーモアを漂わせ、浅井愼平的というしかないエピソードが挟まる。
そして、俳人としても一流である。そのことは前々から知っていた。そしてこの『ノスタルジア』という句集に収められている句を一句、二句知ったことで、これは手にしないではいられないと感じた。
今、誰にでも「簡単にできる文芸、詩文」として俳句を楽しんでいる人、詠んでいる人は何百万という単位らしい。まさにブームなのだろうが、日本人としては「入りやすい」趣味なのだろう。それになにしろ五七五でまとめれば、俳句を詠んでいる気分にはなれる。
その頂上の辺りにいる人々は、俳人として名をなし、弟子を持ち句誌を主宰している。
そうした「裾野から頂上まで」の俳人たちの俳句は、古典的俳句の流れの中にあるのがほとんどで、21世紀の俳句らしい俳句を詠む人がどれほどいるか? とヘボ俳人思う。
夕焼けに叫べばムンク冬に入る
という句を一度頭の中で噛みしめれば、「ぼくらの時代の句だ」と感じる。「妙な」新しさを出そうとしたり、奇抜な言葉を挟むことがない。
卓球や見知らぬ人と北ホテル
卓球台の下、リノリウムの床の冷たさがわかるではないか。平凡だけれど、風景がすぐに浮かび、そこに小さな話ができている。
マッチする修司の嘘や冬の下駄
いいなぁ。いいなぁ。寺山修司が寺山修司を演ずることが自分の生涯だというようなことをいい、正体を見せないで終えた生涯か、見事に嘘を突き通したか、私には掴まえようがないけれど、この句を見たことで「ほら、ここにそれをわかっている人がいた!」と喜ぶ。
日本の四季を、「花鳥風月」を、旅して目にした風景の写生を俳句にする。それを基本とするのだろうけれど、今あるのは失われつつある「日本の四季、花鳥風月」であり、新幹線、飛行機で行く旅の「行程」はすでになく、行った先には古典的俳句の風景は、実はほとんどないのだ。
春嵐メキシコ湾の空の上
星空に悟空は飛べり黄砂降る
夏草や蛇の匂いの残りけり
旅や花鳥風月や風景の写生でも、これなら「ぼくらの」肌合いに合う。カメラを持って世界中を旅し、夜は酒を飲み、音楽を楽しまないではいられない人、浅井愼平の17文字のスナップショット。
飲み屋街の小路からひょいと見えた風景を詠み、遠い国の街へ旅したとき日の当たる古いれんがの赤さを詠み、移りゆく季節を風とともに切り取る。飲み屋のカウンターで宇宙を眺める人。まるで、本業で、写真を撮っているときのような人に真似のできない「切り取り方」をして見せてくれる。
17文字の小型ナイフのような気分がある。
といっても「俳句としては俳句のままのスタイル」なのだ、だからすごい。正しく五七五であって、ほとんど破調をしないし、これまでの俳句の流れを無視した句作ではない。季語があり(時に、季語なしの句もあり)、時に文語も混じる。ただ、風景も心情も今なのだ。そういうことで言えば「不易流行」の芭蕉と位置は変わらない。古典に学んできた俳人には「言葉の新しさや、選ぶ言葉のこれまでとは異質な点」が気に入らないかも知れないが、長い古典的俳句の流れに、現代を持ち込んで爽快な句に仕立て上げているスタイルを買う。古典に学んだ人々には「わからない言葉」があるだろう、でも、私には伝わる。「ぼくらの時代の」俳句なのだ。浅井愼平が立っている場所が素敵なのだ。
私はヘボ俳人で、短歌の最後の「七七」の言葉の多さに我慢ならないでいる。短歌は素晴らしいのだけれど、俳句の17文字で私の風景をどうにか切り取ってやろうとしている気持ちには、あの七七が長すぎる。その14文字を費やさずに、読む人が「詠み人」の世界を想像できるような言葉をおいてやれよ、と思う。
そういう思いを、この句集の句がかなえてくれた。
今の若い人に「風が吹き抜ける句と、渋味を知った人の都会的な句」を味わうためにぜひ読んで欲しい。また、古典的俳句と、私がいう21世紀的俳句がどう違うかを確認するためにも、読んで欲しい。本の装幀も抜群だ。
俳句が「古いもの」でなはく、詠み手によって時代を掴まえることができると教えてくれる。座右において楽しみたい一冊だ。