缶コーヒーのプルトップをプシュ! と開けて、まずは一口。さ、始めよう。なぜ缶コーヒーかは、『白鍵と黒鍵の間に』を読めば、(たぶん)わかる。『白鍵と黒鍵の間に』を読むと、無性に缶コーヒーが飲みたくなる。
1冊だけでもこんなに面白いのに、「銀座編」と「アメリカ編」と2冊あるなんて、いったいどうしたらいいのだろうか。筆者の場合、罰当たりなことにこの2冊を読むまで南博という人をまったく知らず、むろんその音楽も聴いているわけがなく、ただ、「○○さんと△△さんが揃ってドえらい面白さと言っている。これは探してみなくちゃ」ということになって、本屋で現物を見たらああこのジャケ(装丁)! これで中身に何も無いはずがなく、モノクロームとカラーの美しい装いの2冊を買って帰って、夜中に声は出さずにわあわあ言いながら読んで、あとはもう一気に、打ちのめされました。
6歳でピアノを始めた著者。そのピアノが決定的なものになったのが高校2年の時。キース・ジャレット。アルバム『フェイシング・ユー』とともに、それはやってきた。
【キースの奏でるピアノの音には、ブリティッシュロックにありがちな反抗的なサウンド以外の何かが存在すると直感的に思った。この音楽は、僕のためにあると思った。その音楽には、雄大な草原の上に輝く星々がきらめいて見えた。毎日、登下校時の小田急線の人権無視な満員電車の中で喘いでいたその当時の僕には、現実的にいえば感じられない、見えないはずの風景が、自分の経験したことのように感じられたのである。】
――『白鍵と黒鍵の間に』――より
この時の衝撃を著者は「英語でいうところの「ORACLE(天啓)」だった」と書いている。オラクル。美しい単語だ。初めにオラクルがあった。そしてバブル時代の銀座から憧れのボストンへ、そして今この時も、その人はピアノを弾く人であり続ける。
モノクロのほう、『白鍵と黒鍵の間に』は、オラクルに見舞われた高校時代から始まり、東京音楽大学も挟みつつ、バブルで札束がウヮーンとうなっていた銀座の2つの高級クラブでピアノを弾いていた頃の物語である。著者自身、「ピアニストではなくピアノ弾き」と、いささか自嘲気味に語るその時代の記述は、なるほど自身の意中の演奏をする機会は非常に少なく、それどころか多くの時間をウタバン(歌の伴奏)に費やされたりする。楽曲もジャズからどんどん逸脱し、カントリーから演歌、シャンソン、果てはハワイアンまでこなさなければならない。
『白鍵と黒鍵の間に』がユニークなのは、こうした一見、無駄としか思えない(?)経験がその実、後の自分の血肉になっているのですと、そのようにきれいにまとめるようなことは一切せず、しかしそれでもそうした日々が、やはり何物かではあったのだということが、読者にジワジワ染み込んでいくという点にあると思う。つまり、著者のアタマの中にあるなにがしかの考えや経験知が語るのではなく、あくまで文章という生き物の連なり、そのうねりが、いつのまにか読者を説得しているのである。
いっぽうのカラー版、『鍵盤上のU.S.A』は、良くも悪くも著者を男の子からオトコに仕立て上げ、時代の波とも一致して、同世代の普通のサラリーマンの何倍もの収入をもたらした夜の銀座から、一念発起、力技でアメリカへと飛躍し、本格的にジャズを学ぶ思い止み難く、ボストンのバークリー音楽大学に入学してからの物語である。
「銀座編」もそうではあるのだが、こちらは本の帯にもあるように、よりいっそう、「ビルドゥングス・ロマン」の色彩が濃く、多くの出会いと友情と恋と事件と、合間に内省や倦怠、悲しみがサンドイッチになる。先にキース・ジャレットとの「オラクル」の部分を引用したが、『鍵盤上のU.S.A』にはもう一人のジャズ・ジャイアント、ビル・エヴァンスのアルバム『WALTZ FOR DEBBY』についての息を呑むようなパッセージがあり、少し長くなるがカットせずにそこを引いてみよう。
【このアルバムの素晴らしさを表現するのは難しい。幾度となく聴いたレコード盤からの彼の音楽。既にピアノという楽器が表現できるキャパシティーを優に超えて、実際、ビル・エヴァンスの頭の中にある音を表現できる楽器はもともと存在しなかったような気分にさせるそのサウンド、出てくる音、ハーモニー、アイディアの数々。ピアノという楽器が、彼のイメージをすべて受け止められないかのごとく、そう、すべてがギリギリの線で、そしてすべての行いが最高にリラックスしている空気感。ただ演奏が盛り上がることを良しとするありがちなものではなく、人類を見限った美のミューズが、私も人類というものを見る目がなかったと、雲の上から、頬の片方をだけを(原文ママ)緩ますような演奏。戦争、離婚劇、失業、憎しみ、嫉妬、これら美と対極にあるこの世の中に良く(原文ママ)ある風景を、ほんの一瞬浄化するような音楽が、実際この世で奏でられた場所。また、そのサウンドに、末端の末端ながら、銀座のクラブから抜け出して、マンハッタンまでたどりついた僕の心情がからまっている。】
完璧、だと思う。それも、百点満点で百点の完璧じゃなくて、百点満点で二千点の完璧。優雅な場外乱闘の完璧。
『白鍵と黒鍵の間に』『鍵盤上のU.S.A』の2冊を通じて、著者が記憶の襞の奥から引っ張ってくる人々の姿かたちには、どれもこれも最大級の敬意が払われている。そのことがとても気持ちがいい。崇めるのでもなく、美化もせず、その時、その場にそういう人が本当にいたという、それらの事実に起因するバイブレーションが及ぼすもの。これはおそらく、著者が基本的に「学び」の人だという点から来ているのかもしれない。実際この2冊の中で著者は、レッスンやセッションという形で多くを学び、ときに一面識もない相手にも教授を申し出る。
特に筆者が個人的に大好きなのが、19歳の頃にレッスンを受けていた、「宅孝二先生へのオマージュ」である。