小学生のころは、楽しかったのか、苦しかったのか。個々の出来事をいまだに評価することができない。大人になってからのことは「最低だったな」とか「最高だったな」とか一刀両断できるのに。そう、評価が宙づりになっているのは、子供時代のことだけだ。
今回、三島由起夫賞を受賞したこの小説を読むと、そんなことを改めて思う。初めての経験を言葉で定義できなかった時代の愛おしさ。えも言われぬ感情を処理する回路を持たなかった季節のもどかしさ。大人は、言葉を知りすぎているのかもしれないな。目の前のできごとを心ゆくまで味わう前に、即、ステレオタイプな言葉におきかえてしまう。
「僕」が同級生の「海子」に抱く感情は、たぶん恋愛感情だけど、陳腐な言葉は使われない。恋愛がどこから生まれるのか、その謎に迫った小説なのだ。その謎に迫るには、まず、先入観を捨てること。
「海子は苦しそうに眉間にしわを寄せていた。その苦痛の表情は凄く大人びていて、僕は綺麗だと思ってしまった。(中略)僕はずっと見ていたかった」
これ、海子がトイレを我慢していたときの表情である。
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小学生のころは、大人になってからの生活ではおそらく出会えないであろう人たちが、ごく自然なバリエーションとして周囲に存在していた。この小説は、そういう雰囲気をうまく伝えている。大人なら親友、同僚、知人、他人などと区別してしまうであろう人たちとの、区分以前の距離感が描かれているのだ。小学生が肌で感じる、他者との距離感。いいと思う子も嫌だなと思う子も、手の届く場所にいたことの貴重さが、今わかる。
大人になって、嫌な人とは自由に距離をおけるようになった今、いや、距離をおかなければ生きていけないほど何かを損なってしまったともいえる今、この小説に描かれる他者への感情は、みずみずしすぎて痛いほどだ。小学生時代を誠実に思い出せば、誰にでもこういう小説は書けてしまうのかもしれない。誠実に思い出しさえすれば・・・途中まではそう思う。でも、最後まで読むと、ほとんど無理だってことがわかる。
最後のシーンで「僕」は、「海子」と一緒に東京湾へ行く。「僕」は足首まで海につかり、海を歩く。そのときの描写が秀逸だ。
「足とビーチサンダルの間を海が流れる」
そして、このあとがもっとすごい。足首まで海に埋まっている状態に、泣きそうなほどのリアリティを感じる。品川区の小学生にとって、海とはこういうもので、そこから、すべての海が感じとれるはずなのだ。海の小説や小学生の小説はたくさんあるけれど、この官能性はどうよ?「僕」はこのとき、自分という最大の他者に出会ったのだと思う。
私もまた、品川区で小学生時代を過ごしたから、こんな感覚知ってるよと言いたいけど、こんな描写、やっぱりできない。『夏の水の半魚人』というタイトルもすごいなと思う。海と一体化する小説でこれに匹敵するのは、中上健次の『海へ』くらいだろうか?
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小学生のころは、毎日がキラキラしていて、無限に何かを吸収していくようなイメージでとらえられがちだが、この小説にはこんなフレーズが出てくる。
「いろんなことを知れば知るほど、いろんなことがつまらなくなる」
成長というのは、ひとつひとつ、がっかりしていくことのくり返しでもあるわけだ。
そしてついに、「僕」が何もかもをぶちこわしにする瞬間が訪れる。言葉にできないからこそ、ヒステリックな切れ方をしてしまうのが小学生。なんて危ういんだろう。挙げ句の果てに「僕」は思う。
「ああ、俺はこの十字架を一生背負っていかなければいけないのか」
情けないほどの世界の狭さも、小学生ならでは。狭いから、ぶちこわしてもいいのだと大人になればわかるが、そのときはわからない。世界の狭さもわからず、自らの暴力性ともうまくつきあえない小学生の<絶望の臨界点>を思うと、二度と子供時代になんて戻りたくないなと思う。
「目黒川は東京で一番汚い川なんだ」
私も、小学生時代にそう聞いたような気がする。いや、授業で習ったような気がする。日本を代表する風光明媚な海や川にリアリティを感じることのできない自分を隠していたこともあったけど、かつての東京湾や目黒川が、私の海であり川なのだと改めて思う。美しくない風景に、美しいものが宿る可能性はゼロじゃない。すべての海はつながっているわけだし、美しくないからこそ、より素敵なイマジネーションの源泉になるってこともあるんじゃないか?と今なら開き直れる。品川区を舞台に、地を這うようなギリギリの奇跡を見せてくれたこの小説に、私は、救われる思いがした。