俳人、坪内稔典と、歌人、永田和宏が、「いのち」「夢」などとキーワードを決め、それに合った俳句、短歌を選び、あれこれと論じている。対象を戦後の句集歌集に限っていることも本書の特徴のひとつで、よく知られた傑作を紹介解説するのではなく、ごく最近の新しい人の作品を取り上げている。私たちが俳句を読んでいるときは、自然と俳句的世界に居るわけで、短歌の場合もそうだろう。それが本書を読み進むと、ふたつの世界が頭のなかで入り乱れせめぎ合い、新鮮な刺激を感じることができた。坪内、永田、両氏の選んだ作品を味わいながら、その読み方のヒントも参考にできるのだからありがたい。そのように読むと、俳句短歌入門書としても、格好の読みものになっていると思う。
私は今まで俳句も短歌もあまり熱心に読んでこなかったが、それでも評判になると(安藤美保『水の粒子』など)、好奇心にかられて通読することはあった。それで、安藤美保の、
ずいずいと悲しみ来れば一匹のとんぼのように本屋に入る
言葉ということばが輝いてくる時を思いうかべつつ地下街をゆく
などという短歌に出会えば、たちまち感動する、ということはあった。
でもそのことから次々と他の歌集の方にはいかないで、例えば、私の興味は、武藤康史が「短歌往来」に連載した「安藤美保の日記」という散文の方に向かうのだった。この、まるで恋人のこころを探し求めるかのような日記の読み解きは、読む側が全裸にならざるをえないような所があって、そういう散文精神とでもいうべきものに私は興味をもったのである。
俳句については、永田耕衣に関心をもってきたので、短歌よりはたくさん読んできたと思う。そして最近は何と言っても、日本中のカバに会ってきた男(『カバに会う』岩波書店)、坪内稔典だ。
はじめて稔典さんの俳句を読んだときには驚かされた。その句は確かカバの句ではなく、こんな俳句だったように思う。
春の坂丸大ハムが泣いている
春昼の紀文のちくわ穴ひとつ
商品名などを俳句に入れてもいいのか、というのが私の第一印象だったが、繰り返し読むと、ユーモアのなかに生活の真実みたいなものも読み取れそうで面白いと思った。また余韻の波が残っているところなど、名作と言っていいのではないかと、ひとり興奮したことも覚えている。
永田和宏さんの短歌は、この『言葉のゆくえ』ではじめて読むことができた。稔典さんとお互いにそれぞれの俳句短歌を選びあってコメントをつけるというコラムがあって、稔典さんは永田さんのこのような短歌を選んでいる(恋というキーワード)。
きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり
あの胸が岬のように遠かった。畜生!いつまでおれの少年
どちらも永田和宏の第一歌集『メビウスの地平』(1975)に入っている作品だという。確かに、まとめて読みたい、と思わせる力を持っていると思う。
この『言葉のゆくえ』には、坪内、永田、両氏の対談も収められている。その対談では、両氏の俳句、短歌それぞれへの思い入れが語られ、興味深かった。
稔典さんは、俳句は伝統的に笑いの詩だと言い、また新しい言葉をいち早く取り入れる詩形だとも述べている。そういえば、「デパ地下」などの俗語を使った俳句も紹介されていた。
デパ地下の季語を買いますつくしんぼ
一方の永田和宏さんは、短歌について、結局は時間なのだと言う。永田さんが長く歌をやってきたのは、自分の経て来た個々の時間が歌の中に全部読み込まれている気がするからだ、と述べている。
対談では、ふたりの意見がかなりちがっている所があるが、それは個性のちがいではなく、俳句と短歌という詩型の違いが表れたのだ、そう見たい、という稔典さんの言葉が最後にあって、それを読んだとき、私は思わず笑顔になった。