世の中に、いわゆる「恋愛小説」を書く作家が何人いるかは定かではないが、この作品を書いてしまった同業者に対して、嫉妬しない作家はいないのではないだろうか。今年上半期の、「ベスト恋愛小説トップ3」に入ること間違いなしなのが、『ディビザデロ通り』である。
書いたのは、スリランカ生まれでカナダ在住の作家、マイケル・オンダーチェ。彼の代表作はいわずとしれた、映画『イングリッシュ・ペイシェント』の原作である『イギリス人の患者』(新潮社/新潮文庫)だが、そののちも『ライオンの皮をまとって』(水声社)など、どこか官能的で不思議な味わいのある作品が、続々邦訳されている。
まず、『ディビザデロ通り』で描かれるのは、血のつながらない同い年の姉妹アンナとクレア、彼女たちより少し年長の少年クープの物語だ。彼らはカリフォルニアの農園で、厳格な父親のもと「家族」として育ってきた。しかしある日、まるで必然のように、アンナとクープが一線を越えたことで、「家族」は離散を余儀なくされるのである。
父親が少年に対して振りおろした三脚のストゥール、少年の身体を受け止めきれずに粉々に砕け散っていくガラス片。
逆戻りは許されない運命の扉はこうして開いたのだった。
時が過ぎ、アンナは文学研究者に、クレアは弁護士事務所の所員に、そしてクープはいかさま賭博師となったころ、ひとつの運命的な再会の瞬間が訪れるのだが、それは束の間の夢と消える。またアンナは、文学研究者として、ある忘れられた作家のことを調べるうち、泥棒の父とロマ(ジプシー)の母を持つ一人の男と出会い、作家の生涯に秘められた愛の逸話を知ることになる。
悲劇的な結末によって切断されたアンナの初恋の物語をはじめ、本書においては、いくつもの男女の愛のかたちが描かれ、変奏され、シンクロし、さらに引き継がれてゆく。時代も、場所も異なる三つの大きな恋の物語が、支流がやがて大河に注ぐように、ひとつの大きな流れと姿をかえていくのだ。
しかし三つの物語は、大団円的な結末に集約されておしまい、とはならない。作中、ガラスが粉々に砕けるというシーンが数度用意され、そのたびに局面は大きく変わるが、まさに偶然に飛び散ったガラスの破片ひとつひとつが新たな出来事を生成するかのように、物語は断片化してゆく。あるいは、いちど合流した大河が下流に向かってふたたび分岐するかのよう、と言うべきかもしれない。
本書には、繰り返されるフレーズがある。ディケンズの『テイヴィッド・コパーフィールド』からの引用だという、「自分の人生の主人公になれるのはわたしなのか、それともほかのだれかなのか、これからのページであきらかになるにちがいない」。
私たち読者は、この小説を読んでいるあいだじゅう、自分が「自分の人生の主人公になれる」ことの偶然性、不思議さにふと気付かされながら、ただ物語の流れるがまま、そこに身を委ねることになるだろう。人生がなかなか終わらないのと同様に、この小説の恋の物語も明白な終わりを持たない。
そして、私たち自身の物語もつづく。
すぐれた「恋愛小説」というものは、つねに「人生の真理」をも示唆してくれるものなのだろう。