しかし、時代が進むに従って、数学、物理学、それに天文学などが進歩する。また、空を観察する技術、あるいは観察用の道具の進歩があって、実際にわかることが増えてくる。科学的解明というものが、宗教的に都合がいいとか、昔の偉い人が言ったから正しいというようなことを乗り越えるようになる。太陽の前を月が通る日蝕を見れば、太陽より月が手前にあると誰にもわかる。そしてほとんどの星は、太陽より遠いことも観察の結果わかる。
単純にそういうことから始まって、さまざまなことが解明できていく。
地上を長距離旅する人が、星を観察する能力を持ち、移動距離と同じ星を観察した結果の角度の違いを計算できる能力があれば、まがりなりにも星までの距離がわかる。逆に、地球の大きさもわかる。そうして測った人がいるのだ。あの伊能忠敬もそういう風にして測っていたのではなかったか。
重力、引力を知り、望遠鏡という観察用具が発展すると、正しく科学の時代に入ってくる。
こうした、科学的にはまったく「のろのろした」時代の間、人が宇宙をどう考えたか、実感としてはいかに天動説が「正しかった」か、あるいはそうした説が、宗教的に文句が出ないように配慮されていたかを知る。
しかし、それでも地球は回っていることを知るのだ。
木星の衛星も、土星の輪も見えるようになる。太陽系の惑星という考えも徐々に広まり、どうもその考えが正しいと理解する人も増える。
地動説が正しいとわかっても、天動説を捨てきれない群像がいて、そうした人たちが死んでしまうまでは天動説はあったのだ。
そうしたさまざまな説を唱え、観察によって証明したり、あるいは数式によってある結論を導き出したりする科学者たち。
この科学者たちのまったく「人間臭い」競争が始まる。
私が発見したのだ! となれば、尊敬され講演に人が集まり、大学や学会で非常に高い地位に就くことができる。そういう現実的なこともあって、宇宙の探索は深くなっていく。
そこに登場する人の名を一人ひとり挙げる気はない。私たちが学校で教わった数々の名前の他に、敗れ去った人々の名前も山のように出てくる。状況に恵まれて次々に新発見をする人もいれば、環境が悪くまた不運に襲われて、正しい説を立てていながらそれが世に出なかった人もいる。宇宙の探求にそうしたひどく人間的な出来事が多く起きていることも、面白い。
アインシュタインが間違いを犯していたことを初めて知った。
遠くの星を観察できるようになって、遠くの星ほど速い速度で遠ざかっていることを発見する。「そうすると」時間を逆に考えてみれば、遠ざかっていく星々は一カ所をスタートしたのではないか? それを計算してみれば数十億年前に「宇宙は一カ所」にまとまっていたということになる。そこで宇宙は創成したのだ。
科学「噺」のうまい、語り口のいいサイモン・シンの科学講談をゆるゆる読むのは無類に面白い。翻訳もなかなかいいと思う。
科学というのはどういうことができるのかという話もきちんと読ませてくれるので、実は科学嫌いにも読ませたい。