わが国の死刑制度は凶悪犯罪への抑止効果としての一般予防と社会の安全性を保つ特別予防をその論拠にしている。前述したように、抑止効果はない。誤判や冤罪については、社会防衛のため、やむを得ないリスクであると存置派は言う。森達也はわずかなリスクであっても、国家が主権者である国民を殺す死刑制度には、論理的な正統性はないと結論づける。そこで論理ではなく、「情緒」で死刑を考えることに軌道修正する。ここから一気に森達也は自分の気持ちを全面に出していく。
「人を殺したら殺されて当たり前」という被害者遺族の応報感情が死刑の根源に息づいているからではないのか。ここが情緒で死刑を考える出発点である。ノンフィクション作家の藤井誠二は死刑存置派で、日本で一番数多く被害者遺族に接している。彼にも取材をし、「加害者の死は、被害者遺族にとって償いである」との論法に迫っていく。廃止派は「生きて償ったら、被害者も許してくれるのではないか」とステレオタイプの説明をすると藤井は言う。それに対して存置派は「家族が殺されても死刑反対を唱えられるのか」と質問する、と森達也は返す。ほとんど基本的には同じ考えを持ちながら、ふたりは違う結論に到るほど、この問題は難解なのである。答えがないのかもしれない。
いよいよロードムービーの核心に入っていく。
全国犯罪被害者の会(あすの会)の代表幹事、松村恒夫に会う。「お受験殺人事件」といわれた文京区音羽幼稚園春奈ちゃん殺人事件の祖父に当たる。この人の舌鋒は鋭い。揺るがない。
「死刑廃止派の人は人権を尊重しろと言うけれど、死んだ人の人権はどうなるのか」
「加害者を生かすお金は税金でまかなっており、死刑囚100人で毎年2億5000万円掛かっているから、死刑廃止派の人が払えばいい」
「相手を殺しておいて、自分は生きる。それが人間の道として、世間の常識として許せるのか」
そして、最後に松村は「加害者と同じ空気を吸いたくない」とポツリと言う。森達也の苦悩は最高潮に達する。「死刑はだれのものだろうか」と。
ついに光市母子殺人事件の加害者に面会する。いまや彼は時代の極悪人であろう。その彼が、消灯後もこっそりふとんのなかで本を読んでいると語る。「少しでも起きていれば、その分、長生きできますから」と答えた。森達也の心中にどっとこみあげてきたのは、この人物を救いたいという本能に近い感情だった。
「人は人を殺す。でも、人は人を救いたい」との思いに到る。
そのあと、被害者遺族の本村洋から手紙が届く。彼は「なぜ死刑の存置は許されるのかではなく、なぜ死刑を廃止できないのか」と死刑の問題の本質を説く。存廃どちらの側にいても犯罪がなくなってほしいとの思いはひとつなのである。
「僕は人に絶望したくない。生きる価値のない人など認めない」と森達也は最後に叫ぶ。
死刑という極刑について考えることは、自らを存置か、廃止のどちらかに決断することである。言うのは簡単であるが、森達也の軌跡を丁寧に辿っても、最後はいきなり飛躍した。まだ存廃について、もやもやして答えが出ない。それは、僕が死刑囚に会っていないからだろうか。本村さんの奥さんを殺害して死姦し、赤ちゃんを投げ殺したような極悪犯罪者の存在価値を認めるのはとても勇気がいる。でも、廃止派になりたい自分がいるのに、なれないのだ。
自分の考えを整理できないまま、辺見庸の『愛と痛み』に向かう。
辺見庸の立場は、明快である。死刑廃止論者としての慟哭に似た主張である。「不条理で不都合なものへの愛」を持てるか、という大きな問いかけが一貫している。脳梗塞で半身の自由を奪われ、ガンと闘っているこの作家は、論理を超えた愛を持ち出して生命を賭して見えない「世間」を説得しているのだ。
マザー・テレサは「自分に都合のよいものだけを愛している」人間を告発し、「必要とされることのないすべての人、愛されていない人のために働く」ことができるのかと問いかけた。ここが、死刑囚という存在を無条件で救いたい辺見庸の原点になっている。
犬が殺処分される前にふるえて訴えるような目で見られたとき、涙が止まらないほど泣いたのに、人がクリスマスに死刑執行された記事を見ても泣けなかったと辺見庸は自分に憤る。「都合のいいことに泣き、負いきれないことには涙も流さず、目を背けていく」日常に暮らしているからだと確信する。これは「都合のよい愛」ではないのか。この日常こそが死刑制度を「希釈し、無化」している。「世界が滅ぶ日であっても、予定を尊重し、死刑執行する狂った日常」に私たちは生きていることを自覚しなければならない、と。