この3年間、死刑執行が「粛々と」行われ、死刑存廃問題がにわかに浮上してきた。死刑執行の一部始終が文化放送で流されたこともある。鳩山邦夫前法相が「自動的に死刑執行が進むような方法があれば~」と発言したり、朝日新聞夕刊コラム「素粒子」が鳩山を「死に神」と揶揄したりもした。光市母子殺人事件の弁護団への激しいバッシングがあった。存置派と廃止派の攻防が続く。今年5月21日からはじまる裁判員制度の導入など、「死刑問題」について個人的見解を持たなくてはなくてはならないような状況が生まれてきたこともあって、二冊の本を読んだ。
「死刑存置」を主張するにも、「死刑廃止」の視座を理解するにも、欠かせない著作ではなかろうか。死刑廃止への論拠を総括的に提示したのが、辺見庸の『愛と痛み』である。これは、講演原稿をもとに書かれたものだ。その分、トーンが高い。一方、森達也の『死刑』は、死刑制度があまりに目に触れないところにおかれていることへの危惧から、自らの取材を通して死刑制度へ肉薄したノンフィクションである。死刑をめぐる「ロードムービー」と謳っているだけに、いっしょに考えていくには好著である。この本は2008年度の日本ジャーナリスト会議賞(JCJ賞)を受賞している。
森達也の『死刑』から読み進めるのが、自分の考えを整理しやすいのでなかろうか。彼は死刑制度に関わるさまざまな人に会って、死刑制度の暗部に光を当てていこうとした。死刑は不可視であるからだ。ゆえに、不可解なことが多い。死刑の実際を見た人は極めて限られるし、現行の死刑制度を支える関係者は守秘義務で口を閉ざす。その間隙を縫って、多くの小さな事実をひとつひとつ直視し、論理的に積み上げていく姿勢には好感が持てる。
廃止論者は「国家による殺人」と定義し、存置論者は「国家による仇討ち」「犯罪の抑止効果」を主張する。日本では「死刑はやむを得ない」と考えている人は80%以上に上る。執行を停止している国を入れれば、実質上の廃止国は133か国(2007年)。死刑廃止は世界の趨勢であり、死刑を廃止しても殺人事件は増えていないし、逆にデンマークやカナダのように減少している国もいくつかある。死刑は犯罪の抑止効果があるとは言いきれないのだ。
森達也はまず死刑囚に会うことから一歩を進めている。オウム真理教の岡崎一明である。確定死刑囚になった岡崎は「死刑制度があってよかった」と伝えている。死刑囚が望む死刑制度。森達也はここから深い迷路に入っていくことになる。
「死刑廃止を推進する議員連盟」の事務局長である社民党の保坂展人衆議院議員に会って、処刑場のスケッチを見せてもらったり、警察官僚出身の亀井静香同連盟会長にも会ったりしている。選挙の票に結びつかないので、死刑廃止が立法化されるような時機には到っていないことを知る。
次に、大阪大付属池田小学校で児童8人を殺害した宅間守の弁護士と元大阪高検公安部長を取材。死刑囚を弁護する立場の弁護士が実は存置派で、死刑を求刑し、執行の指揮者だった人物が、死刑存置には言葉を濁し、誤判はあると明言している。
冤罪元死刑囚にも会っている。「免田事件」の免田栄である。死刑から生還した貴重な人物で、処刑台に向かう死刑囚との最後の別れを克明に語っている。晴れて無罪になっても免田は郷里を追われたままだ。また、確定死刑囚だったにもかかわらず、再審ではなく、恩赦請願で無期に減刑され出所した石井健治郎にも会っている。殺人を犯した石井は釈放され、冤罪の共犯者が死刑になったことへの苦汁の思いは事件後60年経っても続いている。死刑は歳月で風化していないのだ。
実際に死刑を執行した元刑務官にも詳細に執行の様子を聞いている。彼は死刑執行を明らかに野蛮だと断言するが、死刑廃止までは踏み込めないでいる。死刑囚の一番身近にいる教誨師の神父にも会っている。その神父は処刑の直前にすべての死刑囚を抱きしめていると言う。「教誨は死刑制度維持のためにあるのではないのか」という森達也のきわどい質問に神父は「矛盾を感じる」とはっきり答えている。死刑を存続させるために、宗教家も結果的に寄与しているのだ。ますます死刑制度は読者の混迷を深めさせる。