ミステリーなのに青春小説。若いのに古風な登場人物。軽いのにコクのある読後感―。
米澤穂信の小説には、不思議な味わいがある。
ミステリーだから、提示された謎はもちろん解明される。日常的な、他人を傷つけない小さな謎が、テーブルマジックのように鮮やかな手つきで解き明かされるから、ストーリー的にはある種のすっきり感がある。だけど、何となくすっきりしないのが登場人物のキャラクターなのである。
たとえば『氷菓』などに登場する「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」という省エネスタイル。そして『春期限定いちごタルト事件』などに登場する「日々の平穏と安定のため」の小市民スタイル。今時の<草食系男子>とも違う、どちらかというと古風な、しかし、どう考えても青春小説に似つかわしくない温度の低さではないか。それなのに、小説としてはタイトル通りのライトな甘口テイストに仕上がっており、そのアンバランスさに、なんだか消化不良を起こしてしまうのである。
そう、米澤穂信の小説には、解明されないミステリーがある。私はそう思っていた。ライトな甘口に隠された毒。クールな省エネに隠された熱い思い。それは、平たくいえば、著者の執筆動機ということなのだけど。
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私は甘いものが好きだが、アルコール類も好きで、スイーツを食べながらシャンパンやワインを飲んだりすると、気分が上がり、スイーツを数倍美味しく感じてしまうこともしばしばだ。そんなわけで『ボトルネック』が刊行されたときはタイトルを見て「これだ!」と思った。米澤穂信の小説全般にわたる、個人的な不完全燃焼を解消する小説は、この1冊に違いないと確信したのである。そう、ボトルネックとは、お酒の瓶の首のことであり、ギターのボトルネック奏法は、酒場で酒瓶のボトルネックを切って指にはめ、ギターを弾いたのが始まりなのだから―。
でも、残念ながら、この小説におけるボトルネックの意味は少し違っていた。小説の中盤、高校生の「ぼく」は、新聞の経済面の新語解説コラムで、この言葉を見つけるのである。
「【ボトルネック】瓶の首は細くなっていて、水の流れを妨げる。そこから、システム全体の効率を上げる場合の妨げとなる部分のことを、ボトルネックと呼ぶ。全体の向上のためには、まずボトルネックを排除しなければならない」
ああ、そのボトルネックですか! でも、この解説に辿り着いて安心したことも事実。『ボトルネック』は、これまで米澤穂信の小説から排除されてきたものが、いささか効率の悪い方法で注ぎ込まれた小説だったのである。
この小説もミステリーであることは間違いない。人間の性格に関するミステリーであり、コンプレックスを容赦なく暴くミステリー、想像力の可能性に肉薄するミステリーといってもいい。謎が解き明かされるという形ではなくても、十分に面白いテーマだと思うし、予想通り、これこそが著者の思いをダイレクトに反映した作品と感じられた。そして、この小説はミステリーである以上にSFである。「ぼく」が別の世界にワープする話なのだから。「ぼく」は、自分がいる世界と自分がいない世界を目撃する。2つの世界は一体どこが違うのか?
コンプレックスに苛まされている人間、とりわけ、自分は他人よりも劣っているという意識が強い人間にとっては、身につまされる小説でもある。最後までわかりやすい救いは訪れないし、少なくとも、わかりやすいハッピーエンドではない。私自身は、ハッピーエンドをリアルに感じることが苦手なので、この小説は好感触だった。つまり、お仕着せのハッピーエンドではなく、自分にとって都合のいい、現実的なハッピーエンドを想像したいだけなのだが、『ボトルネック』の結末は、そういう意味で本当に素敵だ。答えはひとつでなく、さまざまな可能性への予感をかきたてる。
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