江戸の名奉行といえば、講談の昔から『大岡政談』の大岡越前守忠相、『遠山の金さん』の遠山左衛門尉景元が有名だ。だが最近は、平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳』(講談社文庫)や宮部みゆき『霊験お初捕物控』(講談社)などが印象深い脇役として取り上げたこともあって、根岸肥前守鎮衛(やすもり)の知名度が上がってきている。六〇歳を超えてから南町奉行となり、一八年の長きにわたって在職した鎮衛を探偵役としたのが、風野真知雄の『耳袋秘帖』シリーズである。
静衛は、剣の腕も立ち市中のことにも詳しい、南町同心の栗田次郎左衛門と根岸家に仕える坂巻弥三郎を直属の部下にして、難事件の捜査に当らせる。老奉行と二人の若手の組み合わせは、『水戸黄門』を意識したのではないだろうか。また若い頃に放蕩無頼な生活を送ったため世情に通じ、肩に大耳の赤鬼の刺青があるという設定は『遠山の金さん』を思わせる。人気時代劇に近いだけに親しみやすく、すんなりと作品世界に入っていけるだろうが、鎮衛の経歴や刺青があったのは史実のようだ。刺青は御法度なので、公的な史料には記録されていないが、鎮衛に刺青があったとする巷説や噂話は枚挙に暇がない。少し余談ながら、遠山の金さんのモデルになった遠山景元に刺青があったのも風聞に過ぎず、その図案もドラマでお馴染みの桜吹雪ではなく、女の生首だったといわれている。ちなみに景元が北町奉行になるのは、静衛の時代から約四〇年ほど後なので、本当に二人に刺青があったとするならば、静衛の方が“元祖刺青奉行”なのである。
それはさておき、静衛の飛車角といえる栗田・酒巻に、根岸家の女中頭さだ、静衛の愛猫お鈴、静衛の恋人で辰巳芸者の力丸、船宿「ちくりん」の主人で売れない戯作者でもある馬蔵(筆名・珍野ちくりん)と女将のお紋、元幇間という変わった経歴の岡っ引き久蔵、海運業を仕切る大物・五郎蔵、そして静衛の亡くなった妻たかの幽霊を加えた面々がシリーズキャラクター。実在の人物が探偵役だけに、失脚したとはいえ幕政に強い影響力を持つ松平定信、北町奉行の小田切土佐守直年に仕えていた頃の若き日の十返舎一九(本名の重田貞一で登場)、火付盗賊改方の長谷川平蔵といった歴史的な有名人が思わぬところに顔を出し、意外な活躍(や時に失敗)を見せてくれる。それだけに、虚実の被膜を巧みに操る著者の確かな手腕が堪能できるはずだ。
静衛は、全国の巷説や奇談をまとめた随筆集『耳袋』(岩波文庫)をまとめたことでも知られているが、実は『耳袋』に載せることを躊躇するほどのとっておきの怪異を秘かに書き留めた門外不出の帳面があり、それがシリーズのタイトルになっている『耳袋秘帖』。静衛は耳に入った市中の噂話の中から、裏がありそうな案件を選んで『耳袋秘帖』に記録し、栗田と酒巻に調査を命じる。怪談めいた事件を合理的に解明するのは、岡本綺堂『半七捕物帳』(光文社文庫)以来の捕物帳の伝統なので、本書は捕物帳の遺伝子を正統的に受け継いだ作品といえるだろう。物語は、これも捕物帳の伝統を踏まえ基本的に一話完結で進んでいくが、各短篇には解き明かされない要素もあり、それが伏線となって後半に思わぬ展開を見せることになる。第一巻『赤鬼奉行根岸肥前』は、しゃべる猫や古井戸の呪いなどの事件が積み重なることで薬種問屋・鴻巣屋徳兵衛の裏の顔を暴き、第二巻『八丁堀同心殺人事件』では、緑の狐や河童の目撃談が悪徳同心連続殺人事件の犯人探索へと繋がっていくなど、短篇小説と長篇小説の両方の醍醐味が味わえるようになっている。
怪談好きな割りに、静衛は霊や狐狸妖怪が怪奇現象を引き起こすとの見方には否定的で(それなのに、妻の幽霊だけは受け入れているのだが)、人間の心の闇、社会の矛盾が臨界点を超えたとき、それが奇談という形をとってシンボリックに浮かび上がると考えている。そのため怪異の原因を探る静衛は、否応なく人間と社会のダークな一面に触れてしまう。ただ、老齢に達し、社会は光と影の両面から成り立っていることを知り尽くす静衛が探偵役なので、“闇”が相対化され、読後感は悪くない。町奉行の役目は庶民の生活を守ることとの信念を持つ静衛は、庶民が喜び害悪が少なければ“必要悪”に目をつぶる清濁合わせ飲む度量を見せるが、庶民を傷つける者、そして役人の不正には断固として戦う。為政者の不正が横行し、庶民の生活などかえりみられないところで政治が動いている現代だからこそ、悪を一刀両断する鎮衛に溜飲を下げる読者も多いはずだ。