カバーに、堀内誠一が関わった雑誌の表紙が並んでいる。1970年代に青春時代を送った私には、『アンアン』とか『ポパイ』など、なつかしい表紙たちである。これらの仕事は、1932年生まれの堀内誠一にとっては、30代後半から40代にかけてのもので、まさしく元気いっぱいの仕事ぶりが、今見てもよくわかる。もちろん当時は、デザイナーが誰であるのか、そんなことはよく知らずに、次々と現れる表紙をただただ眺めていただけであったが。
私が最初に堀内誠一の名前を意識したのは、本の装幀者としてだった。いい感じの本だなあ、と装幀者の名前を探すと、堀内誠一だったというのが何回かあったのだ。雑誌の表紙デザインにしても、書籍の装幀にしても、そのデザイナーはうしろに隠れているので、あとで、これも誰々だったのか、と驚くことがよくある。
そしてその後、決定的な本との出会いがあった。それは昭和35年に朝日出版から出た、真鍋博の『愛媛の昔語り』という本で、その装幀者が堀内誠一だった。黒を基調にした枡形の本で、中央に角を上にした正方形が白の線で型押しされ、その中にタイトルと著者名と出版社名が微妙なバランスを保って書かれている。ページをめくると、見返しのオレンジイエローが、目に驚きと期待を抱かせる、そんな見事な装幀を見て、堀内誠一の名前ははっきりと記憶に残った。
それでは、本書を読んでみよう。
図案家を父に持つ堀内誠一はデザイナーになるのに申し分のない環境のなかで育つ。父の堀内治雄は商業美術家、多田北烏の弟子だった。父のアトリエにも、父に連れて行ってもらった多田北烏のアトリエにも、外国雑誌やそのスクラップブック、色セロファンや絵の具などがあふれていたという。アトリエはワンダーランドのようであったと堀内誠一は書いているが、小学生の堀内誠一がそのなかで遊んだ様子は、本当に楽しそうだ。14才で伊勢丹宣伝課に入社することになるのだが、それは、「父の時代と私の時代」の間には戦争があったということなのだろう。伊勢丹宣伝課に入ることにより、多田北烏、北烏のたくさんの弟子たち、そんな流れに自ら入っていくことになった。
14才の堀内少年は、大人のなかで働きながら、江戸川乱歩や小栗虫太郎の小説を読み、雑誌『ロック』『宝石』『VAN』などもめくるようになり、松本竣介ばりの絵も描くようになる。
私はこの本を読んでいて、このあたりの、何とか自分を見つけようとする姿、手探りではあるが実際に触ってみようとしている姿、に強く引きつけられた。
このあと、堀内誠一は、カメラメーカーのPR誌『ロッコール』のデザインを担当することで、写真そのものに熱中するようになる。そのとき出会ったカメラマンには、東松照明、奈良原一高、細江英公などがいたという。
名取洋之助との出会い、雑誌『血と薔薇』のこと、様々な絵本との出会い、後年住むことになる「パリ」への初旅行など、興味深い文章が続いて、読み終わるのがもったいないと感じるほどだ。
去年、晶文社から出た『旅の仲間―澁澤龍彦・堀内誠一往復書簡』は、堀内誠一の内面を知る貴重な資料の書籍化であり、出版不況が続いている現在、編集者の心意気が伺える立派な仕事であった。