【先日銀座伊東屋の六階に開催されたソビエトロシア印刷芸術展覧会というのをのぞいて見た。〔中略〕いちばん自分の注意をひいたのは児童教育のために編纂された各種の安直な絵本であった。残念ながらわが国の書店やデパート書籍部に並んでいるあの職人仕立ての児童用絵本などとは到底比較にも何もならないほど芸術味の豊富なデザインを示したものがいろいろあって、子供ばかりかむしろおとなの好事家を喜ばすに充分なものが多数にあった。】寺田寅彦「火事教育」(1933年)
1917年の革命以後の10余年間、旧ソ連では、世界の出版文化史においても突出した絵本文化が育まれていました。この時期に生み出された絵本の数々は、当時、ソ連と国交を持たなかった日本にも紹介され、共産主義に対してはむしろ懐疑的だった上述の寺田寅彦をはじめ、国境やイデオロギーの隔てを越えて、多くの知識人・芸術家を感嘆させることになります。
しかし、革命後のソヴィエト・ロシア絵本の興隆期は、1930年代のスターリニズムの本格化に伴い、党公認の「社会主義リアリズム」を除いたあらゆる芸術様式が否定され、芸術家たちに対する粛清の嵐が吹き荒れたことによって終焉を迎えます。
幼児向け絵本の定番の1冊となっているラチョフ『てぶくろ-ウクライナ民話』(福音館書店)をはじめ、ソヴィエト・ロシアの絵本自体は、相当数が日本でも翻訳・刊行されていますが、上述の理由もあって、1920-30年代に刊行された絵本をまとめて見る機会はなかなかないのが実状です。今はなきリブロポートから刊行されていたジェームス・フレーザー『ソビエトの絵本』も絶版になって久しく、1930年代以前のソヴィエト・ロシア絵本の世界に接するためには、本書が現在入手可能なほぼ唯一の日本語書籍となります。主要作家の作品をほぼ網羅した約250冊の絵本をカラー図版で紹介し、個々の作家・画家や、歴史・政治・社会的背景に関する解説・解題も充実した、まずは質量ともに申し分のない1冊です。
冒頭近くでは、まず、児童文学者・劇作家サムイル・マルシャークとのコラボレーションを通じて、ソヴィエト絵本革命の立役者となったウラジミール・レーベジェフの絵本がまとめて紹介されています。輪郭線を使わず、白いページへの色面の配置によって、事物や動物、人物の明快な形態を浮かび上がらせ、グラデーションや点描を用いてそこに微妙なニュアンスを加えてゆくレーベジェフの手法は、バイロン・バートンの絵本に、よりいっそう豊かで柔らかな輪郭面のニュアンスと、溌溂とした運動感と、色彩の軽やかさを加えたような、きわめて魅力的な絵本の世界を創造しています。あるいは、レーベジェフと並んで代表的な絵本画家ウラジミール・コナシェーヴィチによる、先に引用した寺田寅彦の随筆中でも称賛されている『火事』(1932年)をはじめ、より写実的に描き込まれたディティールの魅力に加え、ダイナミックな運動とユーモラスな遊び心が満ち満ちた絵本の数々。はさみで切り抜いて紙のおもちゃを作って遊べるカラフルな工作絵本。シュプレマティズムの美学を活かした大胆な画面構成の学習絵本などなど、一冊一冊に投入された闊達な創意工夫と確かな技術は、現在の目から見ても色褪せてはいません。