利休の謎に迫るため、著者は利休切腹の日から始まり、短篇というよりも掌篇といった長さの物語を積み重ねながら時間を遡るという構成を採っている。各章ごとに主人公も変わり、利休本人はもとより、豊臣秀吉、石田三成、徳川家康、細川忠興(利休七哲の一人。父は古今伝授を受けた細川幽斎、妻は細川ガラシャ)、古渓宗陳(大徳寺の僧で、利休の禅の師匠)、古田織部(利休七哲の一人。山田芳裕の漫画、講談社の[モーニング]に掲載の『へうげもの』の主人公としても有名)、宗恩(利休の二度目の妻)といった錚々たるメンバーが、利休の人生と芸術観を語っていく。
「おごりをきわめ」では利休の“美意識”を畏れる秀吉が描かれる一方、「狂言の袴」では利休が二束三文の陶器を高値で売買していることを口実に、三成が利休を追い落とす謀略をめぐらす。利休は、高価な茶器を重視する書院の茶を批判することから始まった詫び茶を究めただけに、雑器扱いの安価な茶碗の中に美を見い出していたが、「鳥籠の水入れ」の中でカトリックの司祭ヴァリニャーノに高額の器と価値のない器の差を聞かれると、利休は「それは、わたしが決めることです。わたしの選んだ品に、伝説が生まれます」と言い切る。だが美の世界に君臨する利休を間近で見ている妻の宗恩は、利休の中に自分以外の女の影を見て複雑な心境に陥るなど、各章は芸術小説、政治小説、恋愛小説と次々に主題を変えていくので、最後まで緊張の糸が途切れることがない。物語が進み、利休の若き日のエピソードが語られるようになると、古渓宗陳には多くの“煩悩”を抱えていることを指摘され(「三毒の焔」)、出世のため織田信長に接近する(「名物狩り」)俗な顔も見せるようになる。だが多くの“声”によって語られる利休像は、繊細さと傲慢さを併せ持ち、茶道に名物は不要と説きながら道具に執着し、脱俗の境地に達していると思えば俗塵にまみれた一面を見せるなど矛盾も多く、なかなか中心部にたどり着かない。
天才ゆえにその全貌が見極められない利休だが、もう一人の天才・秀吉は、華美を排し枯れた味わいを重んじる利休芸術の中に、艶やかさと生命の輝きがあることを見抜く。当初は、なぜ利休の茶に“艶”があるのか分からないのだが、次第に、若き日の悲恋が関係していることが浮かび上がってくる。それだけに中盤以降は一種の謎解きになっており、最終章の「恋」では、意外な真実が明かされることになる。といっても利休が侘び茶に邁進するようになった“原因”は、丁寧にヒントが示されているので、ミステリー・マニアでなくともだいたいの予測は付けられるはずだ。本書が秀逸なのは、侘び茶の中にある“艶”をめぐる謎を読者をミスリードする手段に使い、作中にまったく別の謎と解明のドラマをもぐりこませたことにある。物語の最後の最後になると、著者が周到に伏線を張りめぐらせることでもう一つの謎を準備し、それに恐るべき解答を用意していることが分かるので、純粋にミステリー(というよりも恋愛ミステリーか)としても楽しめるだろう。
今度こそ本当のネタバレになるので詳しく書くことは控えるが、もう一つの謎は“利休好み”に関することであり、それが利休のフェティッシュな欲望と結び付いている、ことだけは指摘しておきたい。
本書の最大の特徴は歴史を過去へと遡っていくところにあるので、芸術家として技術とプライドを確立した利休が、若い頃は出世欲や名誉欲にまみれていたこともクローズアップされている。そのため利休がどのようにして“煩悩”を削ぎ落とし、あるいは“煩悩”をスプリングボードにして独自の“美意識”を確立したかも、よく分かるようになっている。平凡な商人が、研鑽を重ねて歴史に名を残す大芸術家になるプロセスは、技術を磨くことよりも営利に走り、数多くの偽装問題を引き起こしている現代の職人の批判になっていることも、忘れてはならない。