新聞の文芸時評が、文芸評論家の表看板だった時代が確実にあった。作家論、対談、文庫解説など文芸評論家における仕事の腑分けはさまざまあるが、ロースは文芸時評。新人から老練まで、一カ月の仕事を読込み、秀作をいち早く取り上げ、その時々の文学地図の中に位置づけ、道筋をつける。これこそ現役ならではの、アンテナの高さ、読みの鋭さ、現実認識の確かさを示す仕事であるはずだ。
ちゃんと調べないで、印象で書くのだが、昭和初年の小林秀雄と川端康成、戦後の平野謙と江藤淳が文芸時評のチャンピオンで、そこから新人が発見され、論争が生まれたりした。文芸時評はホットなメディアだった。「文芸時評」の代名詞とも言える平野謙の仕事(46~62年)は、河出書房から単行本としてまとまり、増刷され、河出書房新社からふたたび「叢書」で再刊されている。私もこれらの文芸時評を学生時代に片っ端から読んでいた。文芸時評は、読まずに語るための仕入れとして、あるいは小説読解のレクチャーとして格好のものだったのだ。リアルタイムで一番熱心に読んだのは江藤淳。過去の文芸時評が読まれる時代だった。
『文林通信』として本にまとまった石川淳による「朝日」文芸時評は、文芸誌の月旦を廃し、単行本中心に論じるという新機軸を出して、吉田健一、丸谷才一と受け継がれる。これらはいずれも本になった。井上ひさしがマンガ「じゃりん子チエ」を取り上げて大きな話題となった「朝日」文芸時評が80年。文芸時評が人の口の端に上るのはこのあたりまで。一般の読者にとっては、関心の外にある囲み記事になって久しい。
例によって前置きが長過ぎた。まいったなあ。そこで、ようやく加藤典洋『文学地図』の話。前半分が、89年から2008年までの(断続する)各紙掲載の文芸時評、後ろ半分が、やや長めの文芸評論三編から成り立っている。二つの異なるタイプの仕事を一冊にしたのは、単に分量的なことだけではなくて、副題にある通り、この二十年の文学状況が「大江健三郎から村上春樹へ」(あるいはその逆)で括れると著者が考えたからである。
ひさしく芥川賞受賞作さえチェックしない私にとって、本書における文芸時評は大いに勉強になった。まず「病原体と生きる」と題された初の時評は、「共同通信」一九八九年十二月配信。九〇年新年号を扱い、開高健の遺作「珠玉」、小川国夫の「献身」、八木義徳の「浮巣」を取り上げている。この三人は今は亡い。この二十年で、日本現代文学の世代交代があったことがうかがえる。また、この回では佐藤泰志「青い田舎」に言及し、その後も死に至るまで、加藤は佐藤を支持し続ける。九〇年三月には、再び『海炭市叙景』(集英社・現在絶版)としてまとまる「楽園」に触れ、「同世代の作家中、たぶん村上春樹と並んで、現代最もたしかな技量を示す中堅小説家の作品」と高く評価しているのが目につく。佐藤ファンとしては救われたような思いだ。若くして自殺した佐藤の目に、これはどう届いただろうか。死の知らせにもすぐに反応し、死後、クレインから出た『佐藤泰志作品集』も、これは「朝日新聞」に「小さな出版社が、大きな仕事をした」と最後にわざわざ付け加えている。佐藤の仕事を評価した評論家の一人だったことがこれでわかるのだ。
そのほか加藤は、芥川賞を受賞する作家の仕事にもいち早く目をつけ、称揚している。青山七恵『ひとり日和』(河出書房新社)を「一人の生活疲れの若い女性の話を綴るかに見えて、一人の他者の発見が自分を肯定する契機になるさまを心に残る仕方で読者に示す」、津村記久子『カソウスキの行方』(講談社)を「(今月の文芸誌中)断トツ」、楊逸『ワンちゃん』(文藝春秋)を「文章は無骨。でも心に食い入る」、川上未映子『乳と卵』(文藝春秋)を「図抜けた才能を証す秀作」と、才能を見逃していない。これはもちろん時評家に課せられた大事な役目だ。のち、彼女たちが漏れなく受賞していることを考えれば、この精度は誇っていいだろう。
同様に一九九〇年四月配信「共同通信」では、まだ新人だった保坂和志『プレーンソング』(中央公論新社/中公文庫)を「世界のサイズが自分と合わないという時、そこに自分の居場所がない、つまり世界がタイトすぎる、きつすぎる、というのがこれまでの文学の違和のあり方だった。ここにあるのは、ぶかぶかすぎるズボンのような、コム・デ・ギャルソンふうのゆるすぎる世界感覚である」と評している。「ゆるすぎる世界感覚」が、その後の保坂の仕事をもみごとにピンで位置づけていることに、いまの読者は気づくだろう。
また加藤の評価により、読んでみたいと思わされた作家が幾人かいる。例えば伊井直行。短編『本当の名前を捜しつづける彫刻の話』(筑摩書房・現在絶版)を、「氏の力量のほどはただごとではない。もしこのような作品があと三つか四つ続いたら、村上、高橋両氏以後の新文学の空白などというものは、あっという間に埋まるのではないか」と激賞している。褒めるときは、躊躇せず、思い切って褒めることも文芸時評では大切で、こう言われたら、読者は無視できない。
後半の文芸評論「大江と村上―― 一九八七年の分水嶺」で提示された「戦後、大江から村上へと続いてきた方向線がこれまでの日本文学に対して示す差異の線に、本来あり得たはずの新しい日本文学の基軸が、見つかる可能性がある」というテーマも、すでに時評の中で萌芽として触れられている。時評で反応したテーマを、暖めながら、より深く徹底して問いつめ直して成果を出しているのが先の評論だ。大江は、社会性のなさで村上春樹を批判したが、加藤の見るところ村上は、「意外なほどの深度で、初期から社会への関心に裏打ちされた作品を書いてきた」という。村上の短編「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を、タイトルを借りたビージーズの同名曲の歌詞と比較しながらの読み直しなど、なかなか芸が細かい。
加藤の文芸時評と評論は、この二十年の文学状況を見渡すのに最適な地図で、「『親殺し』の物語」というテーマ設定も含め、バブル以後、ややもすると空白期に映る文学世界を、それなりに収穫期であったことを納得させてくれる。もう一度、ちゃんと日本の現代文学を読み直してみようという気になっただけで、本書を読んだ価値はあった。