主人公の名はディラン・エブダス。ブルックリンで暮らすユダヤ系の少年だ。ボブ・ディランから採られたであろうこの名前は、彼の両親が60年代の影響を色濃く受けていることを示唆している。しかし、ディラン少年がサヴァイヴしなければならないのは、第一部においては70年代である。
60年代が理想の時代だったとすれば、70年代は停滞の時代。そこに見え隠れしているのはボヘミアン文化の残滓でしかない。ディランの両親の関係も破綻している。母のレイチェルは家を出て、ときおり「走るカニ」という奇妙な署名で葉書を寄越してくる。内容は、良く言えば、詩的であり、悪く言えば、わけがわからない。いずれレイチェルは、悲惨な生涯を終えるが、ディランがその事実を知るのは、およそ4半世紀後のことだ。
同居している父、エイブラハムは、アトリエにこもり、いつ完成するかわからないアートフィルムの制作を続けている。彼はアニメーション作家なのだ。1コマ、1コマ、ほんの少しずつ、変化していく画面。それは人生のアナロジーのようでもある。本書もまた、そのような書き口を採用している。とりわけ第一部においては、ディランの成長を、微熱に浮かされたような文体で記し、思春期特有の“多感”を、見事に描き出している。
ディランのかたわらには、黒人の少年がたたずんでいる。彼の名はミンガス・ルード。ここには、チャールズ・ミンガスの名前がこだましているように思えるが、しかしミンガス少年は、ディラン同様、70年代のブルックリンで暮らしている。彼はストリートの文化を生きている。そう、鳴り響いているのはジャズではない。ここで描かれているのは、ヒップホップ誕生前夜の状況なのだ。たとえばこんな記述。これはグラフィティ創世期を伝える貴重な証言でもあるだろう。
「マンハッタンの口に立った巨大なタワーに、惜しみなく色を使った文字のペイントが二つ施されていた。粗い石の建築に高々と、赤と白と緑と黄の、目もあやなスプレーが吹きつけられていた。最初の文字は“MONO”、二番目は“LEE”と読めた。ミンガスの“DOSE”と同じように、その綴りからは意味が排出されていた」
ちなみに、ミンガスの父、バレット・ルード・ジュニアは、業界の一部で名を馳せたソウルシンガーであり、後年、音楽マニアによって再発見されることになる。本書の第二部は、音楽ライターとして活動しているディランの手によるライナーノートというかたちで、バレット・ルード・ジュニアと、彼が属していたグループ、サトル・ディスティンクションズの物語が、簡潔に綴られている(彼らの音源を、2枚組CDとしてコンパイルしたのは、いったいどのレーベルなのか。それを想像するのも楽しい。ライノあたりだろうか)。
70年代後半になると、80年代文化を予感させる動きが見え始める。ひとつはラップ。それがブラック・カルチャーの枠組みに留まらず、広くポップ・ミュージックの一形態として認知されたのは、シュガーヒル・ギャングの登場によって。すなわち、
「一九七九年十一月。『ラッパーズ・ディライト』は、トップ40に割りこんだばかりだ。(中略)その曲はラジオでも街でも流れている。店から、あるいは、肩にかついだ大型ラジカセから漏れてくる。変わったサウンドで、耳について離れない」
もうひとつ、特筆すべきは、パンクやニューウェーブの台頭。
「まもなく、それが何なのかが明らかになった。すでに知られた共通の名前があった。その名はパンク。あるいは、新しい波(ニューウェーヴ)。それらはからみあった何本もの糸だった。セックス・ピストルズ、トーキング・ヘッズ、チープ・トリック。それらの違いを識別し、自分との関係を明言することが、ポイントの一つだった」
ピストルズやヘッズと同等に、チープ・トリックの名前が並んでいることには、いまひとつ実感しづらいものがあるが、それはともかく、ディランは、かつて母親のレイチェルが聴いていたCCRのアルバムをレコード店の交換コーナーに持っていく。その代わり、ザ・クラッシュの『Give 'Em Enough Rope』を持ち帰ってくるのだ。時代が変わったことを告げる決定的な場面だ。