この小説を書くにあたって、トニ・モリスンには、やらなければならないことがいっぱいあったに違いない。まず(物語を語り継ぐ文化は民族にかかわらず普遍的なものであるにせよ)、小説という形式はきわめてヨーロッパ白人色の濃いジャンルであり、しかもそこで用いられる英語は、それこそデフォーやスウィフトからブロンテ姉妹、ディケンズに至るイギリス文学の伝統があり、他方、ポー、メルヴィル、トゥエイン、フォークナーに至るアメリカ文学の伝統があり、しかもそれらはすべて白人作家の手で作られた語彙と語法でできている。むろんそれをそのまま使うわけにはいかない、それは他者の言語だから。では、どう書けばいいだろう? (いや、それ以前に、それこそ、<なぜ小説で表現するのか?>という問いへの思索さえ必要だったかもしれない)。むろんトニ・モリスン以前に(ハーレム・ルネサンスの1920年代にラングストン・ヒューズから、公民権獲得のための闘いが燃え盛った1960年代に活躍したジェームズ・ボールドウィンをはじめ)黒人作家の伝統はそれなりの厚みをそなえていたとはいえ、それでもやはり彼女はほかならない彼女自身にとっての、そして「アフリカン・アメリカン作家としての自分が」書く理由、そして自分にふさわしい、語法と文体の創造が、必要だったに違いない。
さて、それらの問いに、トニ・モリスンは、<声>を活かしながら散文と折り合いをつけるスタイルを創造し、ところどころに(いかにもブルーノート音階のこぶしが聴こえてきそうな)トラディショナル・ソングの歌詞を引用し、しかも生きている者とともに死者もまた一緒に生きているというアフリカ由来の文化を導入し、独自の世界を作り上げることに成功している。トニ・モリスンは、公民権運動の1960年代に、作家になるまえの十年を過ごしているし、彼女のなかにはあの世代独特の誇り高い闘争のスピリットがある、それでいて彼女のこの作品には、柔らかさとしなやかさがあって、賞賛されるだけではなく、愛される小説を書きたい、という著者の願いが達成されている。吉田 廸子さんの翻訳は、作品の声が活かしてあって、良い翻訳だなぁとおもった。ただし、ブルースやワークソングをおもわせる歌詞の引用部は、原詩も添えてあったらなおよかったのにな。(そこだけはちょっと、しらけた。)
余談ながら、おれは、ふと、おもった、もしかしてアメリカ文学を特徴づけるものは、作家たちが、いくらか民族やクラスや地域の代表制のように存在していることではないかしら。いや、さすがにマリオ・プーゾの『ゴッドファーザー』の読者にイタリア系が多いかどうかまではわからないけど、たとえばアイザック・シンガーはあきらかにユダヤ系の文学だし、エイミー・タンの読者は中国系の価値観を涙と笑いで世に問うている。インド系の読者はジュンパ・ラヒリに共感を隠さないだろう。なんとなれば、優れたアメリカ文学であるか否かは、<代表制を体現していながら代表性を越えて、他民族にはたらきかける力を作品がもっているかどうか?>にかかっているに違いない。トニ・モリスンの奮闘もまたそこにあったことだろう。そして、わたしはアフリカン・アメリカンのために書く、という彼女の言葉の裏にはおそらくなみなみならない野心が込められているに違いない。
■トニ・モリスン(Toni Morrison, 1931年2月18日 - )
1931年、アメリカのオハイオ州ロレイン市生まれ。コーネル大学で英文学の修士号を取得し、テキサス州の大学で教壇に立った。1970年『青い眼が欲しい』で文壇にデビュー。1993年にアメリカの黒人作家として初のノーベル文学賞を受賞した。そのほか全米批評家協会賞、アメリカ芸術院賞、ピューリッツアー賞など多くの賞を受賞。
『青い眼が欲しい』"The Bluest Eye"(1970年)
『スーラ』"Sula"(1973年)
『ソロモンの歌』"Song of Solomon"(1977年)
『タール・ベイビー』"Tar Baby"(1981年)
『Beloved』"Beloved"(1988年)
『ジャズ』"Jazz"(1992年)
『白さと想像力』"Playing in the Dark"(1992年)
『パラダイス』"Paradise"(1998年)
『愛』"Love"(2003年)