理念を熱く語る国、アメリカだなぁっておもったよ、そう、チョコレート色の肌に純白のワイシャツにタイ、クールにスーツを着こなし、同じく黒い肌のかわいいふたりの娘と美しい妻とともに現われたオバマ氏の、勝利演説を聞きながらね。オバマ氏は深みのあるやわらかな声できっぱりと語った、「ハロー、シカゴ。アメリカは、あらゆることが可能な国です、いまだにそれを疑う人がいるなら、トゥナイト・イズ・ユア・アンサーだ。(・・・)若者も老人も、金持ちも貧乏人も、民主党員も共和党員も、黒人も白人も、ヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、ゲイもストレートも、障害者も障害のない人たちも、アメリカ人はみんなして、今夜、答えを出した、世界に向けて。わたしたちはただばらばらの個人が集まっている国であったこともなければ、ただなる赤い州と青い州の寄せ集めだったこともない。わたしたちは今も、そしてこれから先もずっと、すべての州が一致団結したユネイテッド・ステイツ・オヴ・アメリカなんだ。」
すばらしいアメリカのスピーチだなぁっておもったよ、もちろん現実を見れば、ありとあらゆる矛盾が群がり存在しているのだけれど、それだからこそ、平等の理念を熱く謳いあげる、アメリカはリンカーンの時代から、あのスタイルで国民を束ねてきた。リンカーンの時代から、か。
おもえばアメリカ建国の年が1776年であり、フランス革命の年が1789年だったことは象徴的である。
アメリカは<自由の国>の理念のもとにつくりあげた国ながら、一方でネイティヴたちからただ同然のカネで土地を奪い取り、他方で、(いつかは手放さなければならないことは明白な)奴隷制度を長きにわたって手放せず、それどころか南部にいたっては奴隷制度に依存した農業形態であったがゆえ、工業化の進んだ北部のピューリタンたちと対立し、南北戦争まで起こし、そしてボロ負けした。しかも信じ難いことに南北戦争はなんと十九世紀後半のことなのである。それからまたフランス革命にしても、「悪しき」権力側をギロチンで殺し尽くして、<自由、友愛、平等>理念で政権を作ってみたものの、しかしまったくおさまりがつかず、なんとか混乱を押さえ込んだのは、それこそヒットラーさながらのナポレオンだった。
そういう現実をおもい返せば、オバマ氏のあの演説が人の心に届いたのも、オバマ氏が(先祖が奴隷だったわけではないにせよ、エリート中のエリートであるにせよ、それでも)黒人だったことが大きいんじゃないかしら。もしも同じ主張でも白人が訴えたのでは、マイノリティにとっては、なに言ってやがる、たんなる正論じゃないか、矛盾山積みのでたらめな現実を見ろッなんちゃって、まったくもって聞いてもらえないんじゃないかしら。逆に言えば、オバマ氏はよくわかっていた、自分のもっているいささかマイナスのカードをプラスのカードに換えることができることを。
さて、本題に入ろう。アフリカン・アメリカンが奴隷だった時代の物語を、アフリカン・アメリカン自身が書く、この主題は(おそらく)アフリカン・アメリカンの作家の多くを誘惑した主題だったろう。しかし、では、じっさいにどう書くかとなると難しい問題が山積みであり、しかもアレックス・ヘイリーの『ルーツ』(1976年)の成功の後では、ますます難易度は高まり、けっきょく多くの作家が尻込みしたんじゃないかしら。ところが、トニ・モリスンは『ビラヴド』(1988年)で、この(腹わたにずしんとくる、重く、沈鬱な)主題に、おもいがけない手法を導入し、ときにやや説教くさいところもなくはないにせよ、また告発の独善性に陥ることもなく、むしろ、声のある、多面的な魅力をそなえた、複雑で幻想的な物語を作り上げた。
凝った書き方で書かれているから、なかなか物語がほどけないんだけれど、さまざまな声のなかからじょじょに姿を現すのは、こんな物語だ。時はまさに南北戦争前後のアメリカ、ヒロインのセスが逃亡奴隷になって、奴隷制が猛威を振るう南部のケンタッキー州から、自由州と呼ばれていた北部のオハイオ州、シンシナティへ逃亡する。しかし彼女に追っ手が迫る、(このあたりはちょっとサスペンス小説をおもわせもする)。そのとき彼女は、愛するわが子が現世で自分と同じような哀しみを舐めるくらいなら、いっそ自分の手であの世に送ってしまおうと、わが子を殺めた。彼女は、まだ名前もつけなかった赤子を、墓石に彫りものをするのが巧い男にセックス一回分と引き換えに“ビラヴド(愛されしもの)”と彫ってもらい、赤子を墓に埋めた。
さぁ、ここからトラウマとの闘いという主題が現われる。と同時に物語は、トーキング・バラッドのような調子で、彼女と関係するアフリカン・アメリカン群像もまた描いてゆく。さらには、その罪を犯したヒロインのもとに、時を経て、ビラヴドという名の女性を遭遇させる。しかもその女性ビラヴドがまるで魔女のように神秘的に描かれ、(そう、まるでトルーマン・カポーティ描く『ミリアム』のように!)、そして彼女の登場とともに物語は、リアリズム小説と幻想小説のあわいに入ってゆく。さて、このビラヴドの創造を賛美するか、はたまたリアリズム作家としての<逃げ>と見るか。ここはね、いかにも意見が分かれそうだけれど、おれは、いいとおもう。南部小説には、こういう要素がなくっちゃ。それからまたこういう要素を人によってはフォークナーからの影響と考える人もいるだろうけれど、でもおれはむしろカポーティを連想した、いや、なんだったら、スティーヴン・キングと結びつけたってよさそうなほど。