オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケの作品に、「へんな運命が私を見つめている」という一行がある。今回紹介する小説『ゾリ』の主人公の生涯を語るに、まさにピッタリの言葉ではないかと、ふと思いあたった。
1930年代のチェコスロヴァキアから2003年のパリまで。その間、イングランドやハンガリー、オーストリア、北イタリアなどヨーロッパ各地を移動しつつ、およそ70年間の時間を小説は飛行する。ゾリ、という、本来なら男性のものである名前をつけられた一人の女性のクロニクルである。といっても、物語の進行は通史的なものではなく、あたかもドライヴにおけるニュートラル・ポジションのように、小説の冒頭とエンディング、そしてちょうど中間地点に2003年が置かれ、そこから30年代、50年代、60年代へとギアがシフトしていく。そういう構成を持った作品である。
最初に物語の概要を駆け足でたどってみよう。ロマ(ジプシー)の少女ゾリは、ナチスが台頭し始めた1930年代のチェコスロヴァキアで、その影響下にあるファシストによって家族を惨殺される。物語の冒頭にホロコーストが置かれるのである。惨劇の時、偶然その場にいなかったゾリとジージ(祖父)は、からくも生き延び、その後の人生を2人で生きていくことになる。ところでこのジージは、ジプシーの中ではたいへんな変わり者で、マルクスの『資本論』が愛読書という男。ジプシーの文化では文字の読み書きはタブーであるにもかかわらず、秘かにこれをゾリに叩き込み、これがその後のゾリの人生を大きく左右する。
わずか14歳で、「この男ならゾリから文字を取り上げたりしないだろう」というただそれだけの理由で、親子以上に歳の離れた男と結婚させられるゾリ。その後、馬車の中で仲間から離れて読書しようと思って本を開いた瞬間、被弾してジージはあっけなく死んでしまう。まるで文字を読もうとしたことに対する天罰のように。やがて結婚した男も亡くなり、いつしかゾリはジプシーの「歌」に、自分なりの現実の解釈を加えて書き換える行為、つまり「詩」を書くようになる。気が付くと、ナチスが滅亡したあとの社会主義政権下で、プロレタリア詩人の旗手として祭り上げられ、プロパガンダに利用されるようになっていた。ところが。ジプシーにとっての「歌」とは、常に移ろってやまない玄妙ななにものかであり、それに対して文字や「詩」は固定されたもの、ことに紙に刻まれた書物などは穢れそのものであり、ゾリはジプシー仲間から追放されてしまう。身寄りも友人もいないゾリは、物乞いはしないが乞食同然の姿で1人ヨーロッパを彷徨うことになる。
どん底の彷徨から偶然に救出され、幸いにも心優しい夫に恵まれ、子供も生まれたゾリ。老境に入ったゾリは、2003年のパリで、マイノリティであるロマの文化を称揚する世界大会に、今やロマ文化の活動家になった自らの娘から招聘を受ける。しぶしぶ会場に足を運んだゾリは、ロマ文化の最良の体現者として自分自身に向けられる賛辞にひたすら居心地の悪さしか感じられず、しかも過去の傷口に触るような再会も待っている。
が、しかし。そこには最後に「歌」が待っていた……。
『ゾリ』は小説である。小説である以上、この作品の時代背景やロマ文化についての理解、補足的な学習は、それがあったほうが読み進めるにラクであることは間違いないが、やはり必要条件ではない。だから、ナチスのことも、ジプシーのことも、第2次大戦後の東欧圏の社会主義政権のことも、すべて度外視して読んでみる。一度この小説の“流れ”に乗ってしまうと、ページを踏破することはさほど困難ではない。400ページの大河小説ではあるけれども、長さは苦痛にならない。そしてグッとフォーカスを絞ってみて、小説を動かす原動力になっているある対立を取り出してみたい。それは先に述べた「歌」と「詩」の対立であり、さらに重要なのは「変わるもの」と「変わらないもの」の対立である。
「何年も前にチョンカがラジオを手に入れた頃の話である。ハンドルをぐんぐん手で回すと三十秒くらい音が聞こえた後、消え入るように黙り込んでしまう代物だったが、そのラジオがプラハの放送局の電波をキャッチした。(中略)番組の中では録音されたゾリの声も聞こえてきた。
馬が水場から帰ってきて、たてがみを振り回したりしているのを見ていたら、一番小さなボラがゾリの膝に乗ってきて、おばちゃんはなんでいまさっきラジオの中にいたのに、いまここにもいるの? と尋ねた。ゾリはそれを聞いて大笑いした。大人たちもみな大笑いした。チョンカはボラの髪の毛をなでた。だがゾリは、この問いかけの手強さにその場で気がついていた。ひとりの人間がラジオの中と街道筋に同時に存在するなんて、片方を犠牲にしない限り不可能だったからである」
さりげないエピソードだが、小説『ゾリ』の特質を余すところなく表す決定的な場面だと思う。「ひとりの人間がラジオの中と街道筋に同時に存在するなんて、片方を犠牲にしない限り不可能」だという事態を理解できないような時空間を仮に「近代」と呼んでみる。そこで表現されるものは、この場面にラジオというメディアが登場しているように、「複製技術時代の芸術」(ベンヤミン)ということになるだろう。そしていわば「近代」と「前近代」の裂け目に落ち込もうとしているかのようなゾリのあやうい立場にあっては、「犠牲」になる「片方」とは、むろん「街道筋」のほうであることを、この絶妙なテキストから否が応でも納得させられてしまう。